奥にも行けるようでしたので行ってみます。

  
妻の神があるようです。虚空蔵(菩薩)様もあるようです。

  
おお! ここから出土した縄文時代の遺物でしょうか? 胸がときめきます  
神社のある所は、いにしえから神聖視されている特別な場所である可能性が高いんですよね。

  
石段を登ると、そこには神の祠。

  
ええと、どっちがどっち……? サイはサイでも賽の河原……ではないですよね?

 

 
更に奥へ。

  

  
車はここまで入れるようでした。

  
戻ります。

 

  

  
受け継がれていく生命。

  

  
熊と付く神社ではあっても、本物の熊はいませんでした。
 
  
実際にはこの写真よりももっと暗い中での参拝でした。
写真の色を明るめに調整しているので、まだ明るく見えますけど。

  
だから、ピントが合っていない写真も多いという。

  
気にしません。

  
でもさすがに暗すぎるので、明るく調整しています。
 
  
龍神様が通りますよ。

  
駐車場の向かいには、神社の祭神でもある熊谷三郎兵衛の塚があります。


徳川三代将軍・家光が死去した頃、幕府を倒そうとして失敗した事件に、
熊谷三郎兵衛が加わっていた。
彼は江戸を逃れて鶴岡市の宝林寺に隠れ、手習師匠をしていたが、
やがて身の危険を感じて行人となり、この地へ隠れたという。
彼は村人のためにお祈りをし病気を治したり、

堤防を築いたりしたので、村人たちに大変尊敬された。
しかし、そのことを探り知った庄内藩の役人がやって来て、
三郎兵衛を斬り殺してその首を鶴ヶ岡城でさらし首にした。
村人たちは彼の遺体を葬るとともに首を盗み取ったが役人に追われ、
一時的に宝林寺の境内の一隅に首を埋めた。
(今でも本堂の裏に三郎兵衛の「首塚」と、

彼の木像が安置され子供の守り神として信仰されている)


それとは別に伝わっている話では――、
過酷な藩政に苦しむ人々を救おうとして活躍した義民として名高い三郎兵衛は、
行人に身をやつしてここに隠れ、しばらく平和に暮らしていたが、

庵の後ろに自ら塚を築き、

「即身仏」として「長く人々を守るであろう」と言い残し、入定。
中から鉦(かね)の音が聞こえなくなると、

三郎兵衛が亡くなったことを知った村人たちは、
塚の上にお堂を建てて「熊谷大権現」と崇め祀った。
明治維新になると「熊谷大神」に改められたが、
霊験あらたかで、毎年9月11日の例祭におこもりをすると、
一生に一度はどんな大きな願い事でも必ず叶うと信仰されている。



  
この辺かな~というカンだけで写していました(肉眼では真っ暗で何も見えず)。

  
真っ暗でも写すという……写さずにはいられませんでしたので。

  
龍神様はジッと見ていた……。