崇峻天皇の第三皇子(蜂子皇子)は参拂理大臣といい、悪面限りなく、身の色黒く、
人倫の類とも思えない姿で、顔の長さは一尺九寸、鼻の高さは三寸余り、
目尻は髪の中に入り、口は広く裂けて耳の脇に至り、耳の長さは一尺余り、
さらにその声は悪音で聞く者おどろき騒ぐほどであった。
元来、無知文盲で仏法を知らなかったが、優れた道心と修行の志があり、
諸国行脚の旅に出てこの山に辿り着いた。
しかし山が深くて分け入ることができなかった。
すると、片羽八尺もある三本足の大烏が飛んできて道を教えられ、

木の間を分け入ることができた。
しばらくすると烏が杉の木にとまり、片羽をたれて休み動かなくなったので、
怪しく思ってその木の下の木の葉をかき分けると、正身の観世音が現れた

一方、隆待次郎という猟師が禽獣を追って峰に登り谷に下ってゆくと、

怪しい声がするので近づくと、蔦が生えかかり人に似たものがいたので問いかけると、

仏道を修する聖だった。
その頃、大泉荘の国司が難病の腰痛で苦しんでいた。
隆待次郎は山中の聖のことを思い出し、再び山に入り聖のもとを訪ねた。
隆待次郎の強い頼みで皇子はやむなく山を下り始めると、
不思議や病者の家が火事になり、驚いた病者が思わず走り出し、
寝たきりの腰痛が嘘のように治った。
病者の家に着いた時には、火も消えて家も元のままであった
人々は、これこそ般若の智火に違いないと噂し合った。
喜んだ国司は本尊を安置する寺を寄進した。
この霊験が朝廷に聞こえ、烏にちなんで羽黒山寂光寺の名を宣下され、
また人の苦を能く除いたことから、聖に能除太子の名が与えられた。

その頃、酒田の湊に浮木があり、夜毎に光を放った。
能除太子はこの木で軍荼利明王と妙見菩薩を刻み、本尊の脇土にし、
羽黒山所権現として伽藍に祀った。



~【羽黒山縁起】より~

※ 1141年に山城法印永忠が書いたものを、1644年に天宥が筆写


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羽黒権現が由良の八乙女洞窟から瑞光を発して山頂に移った
海中には石の鳥居があり、水無月(旧暦六月)から文月(旧暦七月)にかけて、
星爽やかな夜にはこの沖から竜灯が現れて半天に昇り、海上に落ちて光消す


~【三山雅集】より~


※ 1710年に書かれたもの


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崇峻天皇の第三皇子の参拂理大臣は世間を厭う志があり、
聖徳太子と相談して柴垣宮を出た。
越後路を下り、石動山、国上寺を開いて諸国を巡り、

舟で海上を渡り、由良ノ浦に着いた。
すると美しい女童八人が海の物をもって岩室にいるのを見かけたので、
問いかけると皆逃げたが、一人の女童が、
「ここは伯禽島姫の宮室で、この国の大の海幸の浜である。
 これより東の方にこの大神の鎮座する山がある」
と教えてくれた。
大臣が教えられたとおりに東の方へ進み、道に迷ったところ、
二羽の山烏が飛んできて導き、ついに大神の山に至ることができた。
これにより先の浜を八乙女之浦と号し、山は羽黒山と名づけられた。


~【羽黒山神子職之由来】より~


※ 1725年に書かれたもの


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能除聖者は、勅合で照見大菩薩、崇峻天皇の御子で蜂子皇子という。
聖徳太子にすすめられて薙髪し、弘海と名のった。
諸国修行の旅に出て、由良の浜辺に来た時、
遥か東方に五雲がたなびき、一羽の烏が来て導き、この山に登ることができた。


~【羽黒山修験広法灌頂伝持血脈】より~


※ 1836年に書かれたもの


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今から1400年前、崇仏派の蘇我氏と神道派の物部氏との政争に巻き込まれ、
父・崇峻天皇を蘇我氏に殺害された蜂子皇子は、
追われるように都を離れ海路日本海を北上し、流浪の旅を続けていた。
そんなある日、皇子は突然思いがけない光景に眼を奪われる。
荒波にそそり立つ絶壁、神秘と威厳を感じさせる洞窟群と奇岩奇石。
その岩上では恵姫や美鳳ら八人の美しい乙女が盛んに領布を振り、
笛の音に舞いながら皇子達を導き、この地に迎え入れたと伝えられている。
皇子が上陸した地は現在の由良海岸八乙女浦で、
この蜂子皇子と八人の乙女の伝説にちなんで『八乙女』の名が付けられたといわれている。

八乙女浦に上陸した皇子は、八乙女の一人から羽黒山は大神が鎮座する山であることを知らされ、三本足の烏に導かれて羽黒山に登り、阿久谷で難行苦行の末、羽黒権現を拝し羽黒山を開き、続いて月山、湯殿山を開山し、修験の里・出羽三山の礎を築いたといわれている。

八乙女浦にある洞窟は、羽黒山頂の御手洗池(鏡池)と繋がっているといわれ、

その昔、羽黒山本社が火事になった際に、

この洞窟から煙が出てきたという伝説が残されている。


~【八乙女伝説】より~


※ 由良温泉観光協会発行


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八乙女浦の北端「御宝前」には以前、海面から僅か上の所に『神穴』と呼ばれる洞窟があった。20年前(これが書かれた当時)、大量の岩石が崩れ落ちてきて、神穴を完全にふさいでしまった。今では神穴がどの辺りにあったかよくわからない。
35キロ離れた羽黒山まで繋がっていると伝えられているのはこの神穴だった。
昔、上林法印という人がこの神穴に奥深く入ったといわれるが、
この法印は羽黒山中興の祖・天宥に組して失脚、天宥と共に羽黒山を追われた人ともいわれている。
その神穴を探検した人は、後にも先にもこの上林法印だけと伝えられている。
法印は入洞のため修行で身を清め、ローソクの微かな明かりを頼りに神穴を奥深く進んだ。
しばらく進むと、六畳ほどの広さの洞に出た。
さらに進むと、八畳ほどの洞があり、そこには砂が敷いてあり、片隅に皿が伏せられており、その下には何か金色に光るものが置かれていた。
法印は、ここは神々の座であり、人間の来るところではないと引き返した。

「八乙女」という呼称は古い記録によると、「八呼止」あるいは「八呼留」と記述されている。
近くを通る船人を呼び止めた八人の美しい彼女達は、
八大竜王・竜神が乙女の姿に化身したものであるとも伝えられている。
また、温度や湿度、風向きなどで気象の微妙な組み合わせによって舟べりを叩くと、
いくつかのこだまが洞窟から返ってくることがあるので、
これらが八人の乙女の伝説を生み出したのかもしれない。


~【こばえちゃ庄内】より~


※ 庄内地方総合情報誌


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建治元年(1275年)、蒙古襲来のみぎり、鎌倉将軍家より祈願を行ったが、
神異顕現して賊船覆没したので、その報賽のため大鐘を鋳むとした。
この報が四方に伝えられるや、日頃本山を尊信する人々は、

遠近を問わず所蔵の鏡を奉納し、権現の前に山の如く積まれ大鐘を鋳造したが、

その期に遅れて奉納せられた鏡も多数在したので、
阿久谷の池に千枚、山上の池に千枚を鎮め奉った。


~【羽黒山古鏡図譜】より~


※ 1934年出版


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将軍家が羽黒の宮前に敵国退散の祈願をこめたところ、
九頭竜王が忽然として羽黒より黒雲を巻き起こして飛行するよと見る間に日本海に消えた。
かくて間もなく蒙古の艦船が全部覆滅するを報じた。
当時の人々は羽黒の龍神のお働きであると評判した。
鎌倉幕府は羽黒の神々の霊威であると深く感じ、早速巨鐘を鋳て大神に奉った。


~【三山雅集】より~


※ 1710年に書かれたもの

<注釈>

蒙古(モンゴル)に興起したフビライが宋を滅ぼしアジアを征服、ヨーロッパをも蹂躙し、無礼な国書をもって日本をも隷属しようとしたが、時の執権・北条時宗は無視をし続けた。
それに怒ったフビライは、対馬に来襲、壱岐や博多沿岸を侵攻した。
建国以来の国難に、朝廷は宣旨を諸社に下し、敵国降伏の祈祷を行わせると、
およそ十五日後の真夜中、突然の大暴風に賊船は砕け散り、一万余人が溺死した。



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<その他>

■ 由良と阿久谷を結ぶ東西の延長線上に「鉢子」という地名が重なる。
この鉢子村の西側の羽黒山麓に、能除太子が百二十五歳で昇天したという「皇野」がある。
皇野には昔、満能寺の三百坊の堂宇が建ち並んでいたといい、

その跡地を「元羽黒」といい、ここに能除太子の墓と称する開山塚がある。


■ 由良ではかつて、六月十五日の羽黒山の花祭の日に、八乙女洞窟の中の花表岩で出羽三山を拝すると、山上の御手洗池まで神の通い路が通じているので、願い事が叶うと信じられていた。
今でも由良の女性たちは、八朔の日に豊漁を願って、羽黒山に参詣する風習があり、
『蜂子参り』と呼んでいる。



■ 「景行天皇の御代(西暦95年)、武内宿弥を北陸及び東方諸国に遣わして、

民俗、地形を観察せしむ」という伝説が八乙女にはある。
この時、武内宿弥は八乙女洞窟の音楽に誘われて岸に近づくと、
塩土の爺という(航海安全の)神が現れ、宿弥と問答をした。
宿弥はここの三神(玉依姫/豊玉姫/鵜萱不合葺命)を祭り、
二年後都に戻って天皇にこのことを奏上した。



■ 元寇の際、御手洗池(鏡池)から竜が飛び立って元軍を退散させたので、
鎌倉幕府が出羽神社に大鐘を建治二年に寄贈した。
また、太平洋戦争のさなか、大空が赤々と映える中に、
鏡池から八大竜王が南方に飛び立った。