~『湯殿月山羽黒三山一枚絵図』より~ 囲いは、現在の三神合祭殿と蜂子神社。
~『平成之羽黒山 参詣絵図』より~
――山頂の駐車場に到着~。
蜂子皇子の墓の前を通りたかったので、今回は左廻りで参詣してみました。
歴史博物館の展示物の案内板。ふむふむ……。
色鮮やかな花にも、ついつい足を止めて見入って(写して)しまいます。
間もなくすると見えてきました。
蜂子皇子の墓。
本当にここに眠っているのかは不明です(蜂子皇子の墓説は数ヶ所あり)が、
グルリと一周してみても、数本の木しか見えません。
すれ違った女性から、「墓には何かあるんですか?」と聞かれて、
「木(気)しかありませんね~」と、それこそありのままに応えました(笑)。
あ、笹もある。
日本最北の陵墓であり、東北では唯一の皇族の墓とされているようです。
現在も宮内庁の管轄であり、一応このようにお墨付き。
戦前まで守衛も置かれていたようです。
俳聖芭蕉像と出羽三山句碑もあります。
「涼しさや ほの三日月の 羽黒山」
「語られぬ 湯殿に濡らす 袂かな」 ↑ おお、万葉仮名(当て字)で書かれてある?
「雲の峰 幾つ崩れて 月の山」
そして、天宥(てんゆう)社。この人なくして、現在の羽黒山は語れず。
天宥別当は、江戸時代初期の羽黒山第50代執行別当(一山の政務を統括する者)で、
戦国時代の動乱の影響で衰微していた羽黒山の建て直しに、38年尽力されたお方です。
羽黒山の参道に石段を敷設し、ミシュランの三つ星☆☆☆にも選ばれた杉並木の植林や、
須賀の滝、南谷の造営、境内の景観を整えたりと、羽黒山の発展に全力を注ぎました。
徳川氏が天台宗に帰依していたため、数多の諸大名もそれにならった影響もあり、
天宥別当もまたこれまでの真言宗から天台宗へと改め、出羽三山の統一を図ったようですが、これが各登拝口から反感を買ったようです。
その後、羽黒山と湯殿山の法流による争論、境界争いの相次ぐ敗訴、別当後継者問題など……、一山衆徒から排斥され、老齢にして伊豆諸島の新島に流罪となります。
(大正15年、出羽三山神社の調査によって天宥別当の墓が東京都新島村で発見。
羽黒山祓川の自然石を新島に運び、墓碑を建て、昭和51年より毎年6月に墓前祭を執行)
また、書画や詩歌など芸術にも秀で、数々の名作を残しました(歴史博物館で閲覧可能)。
ところ変わって、この石畳の先に、末社(7社)がズラリと鎮座まします。
昔の絵図を見ると、かつてはここにも寺院などがあったようですね。
明治時代に仏教系のものは相当壊されたようですから。
これらの末社も元は、鏡池を隔てた合祭殿の向かいに並立していたようです。
はい、したい~(でもこの日はお休み~)。そして末社は向かって右から――
八坂神社、思兼神社、
白山神社、稲荷神社、
大山祗神社、建角身神社――
ここは下駄が目立っているので、皆さん足を止められます。
脚の弱い方が健脚を祈り、下駄を供える風習があるそうです。
元は行者堂(蜂子神社の隣りに建っていた)と呼ばれ、修験道の開祖と仰ぐ役行者を祀る、
現在でも修験者が峰中で拝礼する神社の一つ。
そして大雷神社。
そして、東照社(明治時代までは東照宮)。徳川家康公を祀っています。
夕方5時、業務を終えて閉じられてゆきます。
石段を降りると、正面に広場と鐘楼、そして鏡池と三神合祭殿が見えます。
手前には世界平和の塔もあります。右側には儀式殿や参集殿、霊祭殿があります。
鳥居を潜ると(もう横側から中へ入っていましたが^^;)、この先は神域中の神域となります。