この悠々と流れる北楯大堰は、大学堰とも呼ばれています。
それまで荒野だった庄内平野の中部~南部に、大水路を完成させた人物の労を称えて……。
その名も、伊達政宗の伯父・最上義光の臣である、北楯(大学助)利長

庄内平野は現在でこそ日本有数の穀倉地帯として数えられていますが、
今から400年前、天下分け目の関ヶ原の合戦が繰り広げられている最中、
東北・出羽国でも、上杉景勝(西軍)と最上義光・伊達政宗(東軍)による、
【東の関ヶ原の戦い(慶長出羽合戦)】
が繰り広げられておりました――

 

 

 
(この看板のある写真4枚↑↓は、清川地区の西隣りの狩川地区)

山形城主・最上義光の命により、狩川に赴任し狩川城主となった北楯は、
荒れた草原にわずかな田んぼや畑を耕して暮らす周囲一帯の荒廃ぶりに愕然とします。
そこでまずはこの荒野を見渡す限りの田んぼにして、
百姓たちの暮らしも良くできないものかと打開策を練ります。
水は豊富にあるのですが、月山から流れ出る水は立谷沢川を下り、
そのまま最上川へと流れ込んでしまうため、全く役に立っていませんでした。
そこで北楯は、最上義光に大堰開削を願い出たのです。

 

 
疏水(そすい)とは、水を引く目的で造られた水路のことで、
疎水百選とは、日本の農業を支えてきた代表的な用水を、
農林水産省が選定しているもののようです。

 

 
清川地区の写真に戻ります。

 

 
しばらく水路に沿ってテクテク歩いていくと、

 

 
祠が見えました。

 

 
そして、【殉難十六夫慰霊塔】と刻まれた石塔が……。
100人以上の人夫による、昼夜兼行の大堰の大工事は予想以上の難工事で、
山裾から崩れ落ちてきた巨大な岩石で、人夫16人が犠牲となったようです。

 

 

 

 


清川駅(裏側より)。
 

 

 

 
立派!

 

 

 

 
他の石碑もありましたが、よくわからず……。とりあえず尽力を注いだ方なのでしょう。
それよりも道が長かったので、ここいらで一旦、車へ引き返しました。
もう一本横の住宅地の道路を突き進み(この道を車で通っていいのか不安だったので遠慮)、
行き止まりの場所で車を降り、そこから線路をまたいで木の橋を渡って歩くこと数分――

 

 

 

 
何かが見えてきましたよ。今回、この場所にも来てみたかったのです。

 

このエメラルドグリーンに惹かれて――

 

 
通称『青鞍の渕』。名前だけ聞けば、雰囲気と相まってロマンチック。

 

 
「青鞍之渕遺跡碑」と刻んであります。

 

 
当時のこの辺りの山裾は、最上川が深く入り込んで渦を巻いて流れていたようです。
いくら土砂を投げ込んでも翌日には完全に流されてしまうほどの急流で、北楯は龍神に成就を祈願するため、愛用の青貝ずりの鞍(武士にとって刀の次に大事な物)とあぶみをこの渕に投げ込みました。

すると……なんということでしょう~。
渦巻いていた水面はピタリと静まり返り、無事に堰台が完成したとのことです。
神様の援助によって

 

 
それで、ここを【青鞍の渕】と呼ぶようになったとか……。
この北楯大堰はおよそ32㌔続いているようですが、
荒廃した土地にとうとうと水が流れるのを見て、
当時、水に苦しんでいた村人たちは、うれし涙にくれたとか……。

 

 
昔の人たちが苦労したからこそ、今の私たちの暮らしがあるということも忘れてはなりませんね。

 

 

 

 
戻りま~す。もちろん、帰りも線路をまたいで……あ(^^;)。良い子はマネしないでね。