更に国道7号線を南下し、鶴岡市堅苔沢地区にある別の小島へ――
蜂子皇子と関係があるかはわかりませんが、実は今回訪れた中で一番重要視していた島。

 

 
眺めてくれといわんばかりに、ちょうど島のまん前にビューポイントなる駐車帯もあります。

 

 
島には、酒田海上保安部が管理する、航路標識の「留棹庵島灯標」が設置。

 

 
島の名前でピンときた方もいるかもしれませんが、

実はこの島には竜灯伝説がございます。


「留棹庵島」と書いて「りゅうとうあんじま」と読みます。
この字をすんなり読めた方がいたら、そこがまず素晴らしい(笑)。
地元の人は「るとうあんじま」とも呼ぶとか。
 


竜灯伝説と言ったら熊本の【不知火】が代表格なのですが、

偶然なのか必然なのか、白山島<2>の記事にも載せていたこの説明版↑に、
なんと【不知火】表記があるのです!
ここのお相撲さんと熊本のお相撲さんが勝負したという内容なんですけどもね……何だこの繋がり( ̄□ ̄;)
ちなみに相撲とは、神話に於けるタケミカヅチとタケミナカタが国譲りの際に勝負したとされる、由緒正しき神道の神事(奉納相撲)が起源の、元来、神々に感謝と敬意を示す行為。

 

 

 

 
別の日に写した写真ですが、月夜の海に小船の如く浮かぶ留棹庵島は、

まさに幻想的です。

 

 
昔、この村から海を眺めていると、美しい楽の音が聞こえ、光り輝く波が起こった。
同村の誉田彦氏太夫という人が、その不思議と思われる所へ舟をこいで辿り着くと、
海中から大亀に乗った女童が姿を現した。
女童は、「長らく観音様がこの海底に沈んでおられる。どうか一刻も早く水から上げて寺に祀ってほしい」と懇願され、太夫は改めてまた来ることを約束し村へ帰るが、
その後信心深い老人に話し、再びふたりで光り輝く海面へ出かけていった。
しかし太夫が観音様を引き上げようと海に飛び込もうとするも、
そこには冷たい水が湧き上がるように物凄い渦をなしていたので、
彼はお経を唱え、早くお姿が海上に現れるようにと祈ることにした。
お経は夕方まで続いたが、その祈りが届いたのか次第に水が引いていくと四つの島が現れ、真ん中の島に観音様が坐っておられた。
同時に、大舟や小舟が現れ、ひとりでに海岸に向かって進んでいったのである。
そして今度は、浜辺に集まっていた村人たちがそれらの舟に乗って島へと向かい、
太夫や老人と共に皆で観音様を陸へお連れ申して、庵(寺)を建ててお祀りしたのであった。
尚、後に四つの島は、仏島、観音島、留悼島と名付けられた。


……もう一つの島の名前が不明(?)ですが、寺は現在の堅苔沢地区にある園通寺
本尊は約21センチの金銅製の千手観音様。

 

 
個人的見解ですが、
誉田という名からして八幡・薬師系の匂いもどことなく感じられるのは気のせいでしょうか。
ちなみに誉田別尊(応神天皇)は、武内宿禰と神功皇后の子。

 

 
荒倉神社の奥の院・八乙女洞窟にはこんな伝説もございます。
「景行天皇(西暦95年)の御代、武内宿禰を北陸及び東方諸国に遣わして、民俗、地形を観察せしむ」
この時宿禰が、八乙女洞窟の音楽に誘われて岸に近づくと、
現れた塩土の爺という航海安全の神と、この地に祭る神々についての問答をしたそうです。
そして、荒倉神社」「薬師神社(三瀬葉山)」「八乙女の神……三神を祭り、
二年後に都に戻ってこのことを奏上したともあります。

 

 

 

 
 

「そのかみ羽黒権現此所(八乙女海岸)より瑞光を輝かし山頂に移りまし給ふよし
 則ち海中に石の鳥居あり、今に至って水無月(六月)より文月(七月)かけて
 星河さはやかなる夜は、
この沖より竜灯あらはれ出て半天に昇り、
 又海上に落ちてその光消す。
かかる不思議あに凡及ばんや、
 すなはち修験入峰の時節は(八乙女洞窟が)羽黒山より遥拝の霊地なり」

~ 『三山雅集』より ~

 

 
竜灯といえば、肥(火)後の国・熊本で水軍の水先案内をした不知火】と並んで、
京都の天橋立に伝わる竜灯の松】なる乙姫伝説(浦島太郎)も有名です。
尚、不知火現象は現在でも毎年8~9月に見られるようです。過去記事は<コチラ>。

 


この辺りの人々もまた、海に飛び込む怪光を昔からよく見かけると聞いたことがあります。
確かに何かがありそうですね。
私もしばらく夜の幻想的なこの雰囲気を堪能しておりました(国道沿いなので車が頻繁なのがネック)。