庄内平野のどまんなか・久田地区から深川地区へ。
西の酒田市広野地区へと通じる水田地帯の道路を走っていると、こんもりとしたいかにも神社があるといわんばかりの森がぽつんと見え出します。
ちなみに隣りの広野地区大渕には、
「朱がめ」の話があります。
出土した瓶の中の赤い血のようなドロドロとした液体を気味悪がって、そばの京田川に捨てたお爺さんが、実はそれは黄金以上に貴重な「朱」であったと、赤くなった川を調べに来た人に教えられ、悔しがって三日間寝こんだというもの。
(尚、現在の広野小学校は大渕館址)
入り口を指し示す立派な看板もありました。
とある本に、昔この神社を撮った写真と伝説が紹介されていたので前々から来てみたいとは思っていましたが、まさかこんなに整備されているとは思ってもみませんでした(笑)。
飛龍伝説の地!
これを目にして『余目まつり』(ここは旧・余目町)に登場する龍の山車は、ここから来ているのかとピンときました(だから整備されているんだなとも)。
『田沢湖・龍神まつり』に登場する龍の山車にも似ています。
ここの住所は、庄内町深川大縄場24。
八幡神社でもあり、金沼神社でもあります。
<祭神> 誉田別命(応神天皇)、金沼大神、天照大神
ちなみに周辺にも、八幡神社が多く点在していました。
この八幡神社も元は、深川集落にあったのを移転してきたそうです。
本殿の隣りには、八坂神社もあります。
とにかくこの日は風が台風並みに強かったのですが、
どれくらい強かったのかというと……、
鈴緒がブランブランと左右に激しく揺れ動いているのがわかりますでしょうか。
まともに立っていることもままなりませんでした(夕方頃にはやみましたが)。
ただでさえ風が強い土地。
伝説でも大風を起こす龍と書いてあるほど……。
わたくし、さっそく熱烈大歓迎されています(逆だなんて言わせない)。
庄内のど真ん中ということで、龍神パワーも集約する場所なのかもしれませんね。
その隣りに社名のない社もありました。
レンガ製です。珍しいですよね?
赤レンガということで、この近くに江戸時代まであったという赤沼(赤沼権現)との繋がりも感じられますが、もしかしたらお稲荷さんかもしれません。
稲荷神社もあると参考にした本には書かれていたので(あるとだけ)。
焼き物が盛んな岐阜や愛知を思い出します(以前行ったのが懐かしい)。
余目町役場近くの八幡神社にも同じタイプの社がありました。
ちょっとこのボロさが泣けますが、こちらは保食大神とありました。
ということは、やはり同じ系統の稲荷神社……?
そしてすぐ後ろには沼もあります。
これが社名の由来ともなった金沼(かねぬま)です。
すごく清々しくて風通しもよく、とても気がいい場所であることも実感できました。
昔の写真ではもっと鬱蒼とした木々に覆われていたので、もっと陰湿な所かと思っていましたが(失礼)、それはそうと、この沼にはある伝説が残されています。
この娘は普段から観音様を信仰し、心優しく村人から生き仏のように崇められていた。
5月の末頃、娘が観音経一巻を携え訪れたこの沼で読経をしていると、やがて沼の水面に恐ろしい形相の龍が現れて娘へ近づくが、無心に読経する娘に龍は頭をたれて聞き入っていた。
読経を終えた娘が経巻を巻いて龍に投げつけると、龍の角は折れ、髭は落ち、鱗はこぼれ、龍は南の金峯山めがけて飛び去っていった。
村の災難を救った娘は、後に観音様の化身として金沼神社に祀られた。
金峯に飛び去った龍も善神となって同所の権現として祀られるようになった。
昔はこの辺りに赤沼や大川を初め、大小の沼や川もあったとか。
そしてこの土塁と水掘は、かつてここに館(金沼館址)があった名残だとも……。
文献には「金峯権現此処より現れたまふ」との記述があることから、神聖な沼であることには変わりがないようです。
…… だったりして。
また、八幡太郎義家の伝説も伝わっていることから、この沼の魚は皆片目になったとか、
この沼の水で目を洗えば眼病にも効くという信仰もあるようです(庄内に多い)。
目は目でも、余目駅には が常駐して見守ってくれています。
結構さびていますが(笑)。
製作側の意図を知りたいです。
まぁ、たまたまこんな形になったのかもしれませんが、もしかしたら何かピピッと電波を受信したとか……しないとか。
個人的にはあってほしいところ。
「よめ」じゃないですよ、「あまるめ」です。
――話を神社に戻します(よく飛ぶので。昨日も飛龍の如く体脱しましたが)。
また金沼は、北側にあるこの梵天塚古墳や、
善宝寺(鶴岡市)の龍が棲む穴にも繋がっているともいわれているようです。
この「梵天塚」は、「上人塚」や「正直山」とも呼ばれていた。
昔、湯殿山で修行したお行様が、当地に塚を築いて入定された。
毎日決まった時刻になるとお行様はかねを叩いて中から時を知らせたが、その鳴らす時刻は大変正確で、村人たちは塚を「正直山」と名付けて深く崇めた。
ところがあるおばあさんが、親切心に「お行様も何か食わねばひもじかろう」と、息つき竹に食べ物を入れすぎて空気が通わなくなり、お行様は亡くなり、かねの音も絶えた。
この手の話もよく聞きますが、実際、昔はよくあったことかも……。