江戸時代後期の旅行家で、博物学者、紀行家などなど、様々な呼ばれ方をしている菅江真澄(本名:白井英二)は、1754年、愛知県東部の三河国(豊橋市付近)で生まれます。
1783年、30歳頃に故郷を旅立って、今の長野県塩尻市を中心に1年余りを過ごしたのち、
新潟、庄内、秋田、津軽を経て岩手・宮城を巡り歩きました。
旅先で土地の民族習慣、風土など数多くの記録(現在は秋田県有形文化財、国の重要文化財)を残し、形態は日記・地誌・随筆・図絵集などとなっていますが、
内容は民俗・歴史・地理・文学・考古・宗教・科学など多岐にわたっています。
~ 現代でいう旅行記を載せるブロガーとも呼べるかもしれない?
~
1788年夏、津軽半島から当時は蝦夷地と呼ばれた北海道へ渡り、松前を中心にアイヌの人々の風俗を見聞。4年にわたる北海道の旅を終えたのち本州へ戻り、下北と津軽をおよそ8年間にわたって探訪、1801年に再び秋田に戻ります。
真澄はそれからの28年間を秋田で過ごし、1829年、今の秋田県仙北市田沢湖梅沢にて永眠(享年76歳)。旅好きであった真澄は、生涯家庭を持つことはなく、旅に出てから亡くなるまで故郷に帰ることもなかったといいます。遺骸は角館の神明社に移して其処で死を公表し、その後秋田に運んだと考えられているようです。
尚、菅江真澄翁墓は秋田市寺内(古四王神社近く)にあり、
1962年(昭和37年)に秋田市史跡第一号に指定されてもいます。
真澄の墓は、秋田市寺内大小路137番地にあります(【後城1】とありますが)。
この辺りは墓地・霊園が広がっていました。
手前の駐車場に車を停め、歩いているとあった『秋田竿灯祭り』のマンホール。
『秋田市指定文化財 菅江真澄之墓入口』とあります。
上ります。
あっという間に到着~。お邪魔致しま~す。
早朝、秋田市へ来て早々の墓地見学……(^^;)。
真澄さんの墓は、看板があるのでわかりやすいです。
「真澄さん。今日はこれから、真澄さんも訪れて様々な記録を残された男鹿へ参りますよ。
よろしかったらご一緒に巡りましょう」


中央に『菅江真澄翁墓』という墓碑銘。1832年の3回忌に建てられたこの墓碑には、
真澄のただ一人の弟子・鳥屋長秋の長文の挽歌が刻まれています。


友たちあまたして石碑立る時よミてかきつけける
三河ノ 渥美小国ゆ
雲はなれ こゝに来をりて
夕星(ゆうつづ)の かゆきかくゆき
年まねく あそへるはしに
かしこきや 殿命(とののみこと)の
仰言(おうせごと) いたゝき持て
石上(いそのかみ) 古き名所(などころ)
まきあるきかけるふミをら
鏡なす 明徳館に
ことごとくさゝけをさめて
剣太刀 名をもいさをも
万代(よろずよに)に きこえあけつる
はしきやし 菅江のをちかおくつき處
鳥屋長秋
文政十二己丑七月十九日卆年七十六七