竜の柩(1) (講談社文庫)/高橋 克彦

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・・・以下、抜粋。 ↓↓↓




十三湖(じゅうさんこ)ならおまえも知っておろう」

14世紀に大津波で壊滅したと言われる安東水軍の根拠地だ

と言っても伝説に残されているばかりだ。

神武東征に抵抗し、敗れて北に逃れた長脛彦(ながすねひこ)を開祖とする

安倍一族によって築かれた津軽王国の存在は、

あくまでもロマンであって史実ではないと主張する学者が大半を占めている。

さらに、彼ら一族の興亡を詳しく伝えた『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』も

幕末から明治にかけて作られた偽書とみなされ、資料的価値さえ認められていない。



アラハバキとは、安倍一族が祀っていた神だ。

『東日流外三郡誌』の説明によると、

神体は亀ヶ岡から出土した遮光器土偶に酷似している。



『東日流外三郡誌』にも、義経が十三湖まで亡命してきたという記述があった。



「十三湊(とさみなと)にはじめて城を築いたのは、

 安倍貞任(さだとう)の弟の則任(のりとう)だ。

 平泉文化の礎を作った藤原清衡(きよひら)は貞任の妹の子供でね。

 もともと十三湊と平泉は濃い血の繋がりがあった



青森の作家・太宰治は、小波ひとつ立たない静かな十三湖について、

「浅い真珠貝に水を盛ったような気品はあるが、はかない感じの湖」と評している。



湖とあるから混乱するが、実際は海への出入り口が極端に狭い湾なのだ。

安東水軍の根拠地となっていた頃は出入り口も広く、

湾も狭くて大型船が楽に停泊できたと『東日流外三郡誌』は説明している。



「神社ってのは時代の生き証人とおなじだ。たとえ建物が失われても信仰は残る。

 十三湊のように津波で壊滅した文化は、神社の他に手掛かりがなくなる。

 ここに来てあらためて感じたんだが、神社の数が異常に多いとは思わないか?」

簡単な観光地図で見ても、十三湖の周辺には跡まで含めると、

寺と神社が19も並んでいる。この分では倍の40近くはありそうだ。

「村の人口がどれだけあるか分からんが、やはり異常としか言いようがない。

 それだけ昔は栄えていたという証拠じゃないかな」




もともとは安東氏の末裔である三春藩(現在の福島県三春町)城主・

秋田千季(ゆきすえ)が大火によって古文書、記録のいっさいを失ったときに、

新たな家史の編纂を意図したのが始まりだった。

編纂者として選ばれたのは、

当時、秋田佐竹藩の土崎湊に居住していた秋田孝季(たかすえ)。

任命を受けた孝季はその協力者に、妹婿の和田長三郎を頼んだ。

和田は安東氏の拠点である津軽に住んでいて、神官を務めている。

彼らは安東氏の資料を求めて、北は北海道から南は長崎まで足を延ばした。

完成した原本は孝季が預かるが、近隣の火事で類焼。

だが幸い、長三郎が写本を作成していた。

その後、長三郎から数えて4代目の末吉が、損傷の激しい写本の書き写しを開始。

完成は明治43年で、現在残されているのがこの写本。



(様々な点で胡散臭さを匂わせながらも)

だからと言って『東日流外三郡誌』のすべてが嘘だとは考えていない。



およそ5万年前、中国大陸からアソベ族が津軽に漂着した。

彼らは岩木山の麓に定着し平和な生活を営んでいたが、

今度は5、6千年前におなじ中国大陸から新しい漂着民ツボケ族がやって来た。

彼らははじめ激しく闘ったが、やがて和解し、

紀元前1千年頃には亀ヶ岡に代表される古代文化を形成するまでに至った。

平和な時代は紀元前3世紀まで続く。

その頃畿内には、邪馬台国が勢力を振るっていた。

そこに侵攻してきたのが神武天皇率いる日向軍である。

神武は出雲を平定し、ついに畿内を攻め滅ぼし、

邪馬台の国王であった安日彦と(あびひこ)と長脛彦は津軽に落ちのびた。

長脛彦は間もなく津軽を制圧し、新たにアラハバキ族を名乗った。

これ以来、日本は2つの国家に分裂した。

アラハバキ族は遠く関東まで勢力範囲を広げ、常に大和朝廷を脅かす存在となった。



十三湊には外国船が頻繁に出入りし、福島城下には異人館が軒を連ね、

キリスト教の教会まで建設された。

安東水軍は日本海を駆け巡り、津軽の繁栄は全アジアに広まった。

黄金の国ジパングとは、津軽の古名チパンルから生まれたとも言う。

義経一行が十三湊から船出してモンゴルに渡ったのも、安東水軍の援助である。

だが、その栄華も一夜にして壊滅した。

1341年、突如として十三湊を襲った大津波に家屋はことごとく流失し、

港は土砂に埋まった。

『東日流外三郡誌』は、以下のように惨状を伝える。



――大地震起こり、地下より大水わき上がり、田畑の各処、邸内はもとより、

家の床下よりも噴き上りぬ。

また、墓地よりも湧き上れるに、白骨一面にいでなむ処あり。

道行く人々、田畑に労せる人々、ただ、唖然とて、地に座すのみなり。

地揺れおさまりて、暫し、崩れし家をかたづくるの間、海鳴り聞ゑむや、

数丈の大津波、一挙に十三湊より逆流なして見ゆ。

一刻の大惨事と相成れり。

安東船、諸国の通商船百艘、木の葉の如く、怒濤に砕け、十三湊の倉邸人家、

ことごとく大津波に崩れ、福島城の牧に遊ぶる駒も、襲ふる怒濤に、千数百頭浪死す。

各邑々の死者十万人、引く潮に流れ行く崩家材流木、海にいでては、

渡島(北海道)にぞ陸続きたる如く見ゆ。

さながらの地獄絵図なり。

かしこに遺る人の骸に、鴉(からす)ぞ唖々として群がり、肉をついばむさまぞ、

天なる怒りか、地なる忿怒か、水なるの報復か、ただ、神仏を念ずる身なり――



なかなかの迫力だ。

特に海に流れた材木が北海道に繋がるように見えたという部分は、

凄まじいリアリティを感じさせる。

凡庸な頭ではこれだけのイメージを作り出せないだろう。

その上に真実味があるのは、水軍の大半は海に逃れていて無事だったにもかかわらず、

港が浅くなったために本拠地を失い、全国の港に散らばって避難し、

さしもの組織が自然解体を余儀なくされたと説明される部分だ。

嘘なら嘘らしく津波で全部沈没したと書くほうが簡単なのに、バカ丁寧すぎる。

真実であったからこそと思いたくなる。

『東日流外三郡誌』の世界は、まさに虚実入り混じった歴史であり、物語ではない。



「もし、東日流外三郡誌が嘘っぱちなら、相当想像力の逞しい人間だったんだろうな。

 オレなら百年この土地に住んだとしたって、昔の繁栄なんて考えもつかないですよ」

「現実の風景に騙されているだけだ。シュリーマンがトロイを発掘したときだって、

 その上にはなにもなかった。ぼうぼうとした草が生えていただけなんだぜ……

 それに十三湖から亀ヶ岡は目と鼻の先だ。

 縄文時代からこの地方に高度な文化があったのは疑いがない。

 むしろ、その文化がなぜ失われたのか、そちらのほうが謎に思えるよ。

 攻め滅ぼされるか天変地異でも起きない限り、

 文化は次代に継承されるんじゃないかな」








大津波の記述については、
東日本大震災の津波映像を目の当たりにした今となっては、

存分に信憑性が感じられる内容ですね。


地震の際、沖に出ていた船は無事だったようですし、

地震がきたら船は沖へ出すべしという教えも漁師には知られているようです。



<『東日流外三郡誌』についてはWiki も参照にどうぞ>