突然ですが、ゲームというものは実は過程を楽しむことが目的であって、勝ち負けを競うことはそれほど重要なことではない。
最近しばしばこのようなことを考えます。
四人対戦のゲームを例にすると(まあ何人対戦でもいいのですが)、上記の事象は顕著に現れます。
つまり、四人の中の誰か一人が「一位を取ること」を目的とせず、特定人物の妨害を目的とした場合、一位を決定しているのは実は一位の人間では無く、最下位になったその妨害者である訳です。
そのような状況では、ゲームは著しくつまらないものになってしまうと思います。
わたくしはここに来てやっと、ゲームという遊びは、参加者が全員勝ちにいくという大前提を必要としており、そこで初めて成立するということに今更ながら気付いた訳です。
したがって、一位を狙いにいく、勝ちに行くというのはゲームを楽しむ者としての最低限のマナーであると思います。
何が言いたいのかというと、少し前に放送された「OMOJAN」というテレビ番組でのけんじっちはまじで全身狂気、いや、凶器の立ち居振る舞いだったのだなあ、と再び見返してみて思ったと言うことです。
まじでけんじっち最高。
これからもガンガンやっていって欲しいし、僕も少しずつ見習わなければ! と強く思った、そんな一日でした。
よくわからないという人はごめんなさいm(_ _)m
うぱー!
最近しばしばこのようなことを考えます。
四人対戦のゲームを例にすると(まあ何人対戦でもいいのですが)、上記の事象は顕著に現れます。
つまり、四人の中の誰か一人が「一位を取ること」を目的とせず、特定人物の妨害を目的とした場合、一位を決定しているのは実は一位の人間では無く、最下位になったその妨害者である訳です。
そのような状況では、ゲームは著しくつまらないものになってしまうと思います。
わたくしはここに来てやっと、ゲームという遊びは、参加者が全員勝ちにいくという大前提を必要としており、そこで初めて成立するということに今更ながら気付いた訳です。
したがって、一位を狙いにいく、勝ちに行くというのはゲームを楽しむ者としての最低限のマナーであると思います。
何が言いたいのかというと、少し前に放送された「OMOJAN」というテレビ番組でのけんじっちはまじで全身狂気、いや、凶器の立ち居振る舞いだったのだなあ、と再び見返してみて思ったと言うことです。
まじでけんじっち最高。
これからもガンガンやっていって欲しいし、僕も少しずつ見習わなければ! と強く思った、そんな一日でした。
よくわからないという人はごめんなさいm(_ _)m
うぱー!