鞍馬寺さんからの帰り
鞍馬駅前から国際会館駅行きのバスに乗りました

国際会館駅前から妙満寺さんや岩倉方面へバスが出ていますニコニコ午後行ってみようと思います


調べていると 乗車しているバスが妙満寺さん最寄りバス停 幡枝を通る事がわかり途中下車しました
妙満寺さんはバス停から徒歩すぐでした
妙満寺
入口から素敵なお庭です
妙満寺
通路の両側が池になっています
妙満寺

妙満寺
まずは御本堂へ
妙満寺
妙満寺を創建した日什大正師(にちじゅうだいしょうし)は、もと天台宗で名を玄妙といい、比叡山三千の学頭にまでなった人でした。
 故郷の会津で日蓮大聖人の教えに触れられると、67才という高齢にもかかわらず宗を改め「日什」と名乗り、日蓮門下に入られました。
 そして、日蓮大聖人の遺志である帝都弘通を想い、時の帝・後円融天皇に上奏。二位僧都の位と「洛中弘法の綸旨」を賜り、康応元年(1389)六条坊門室町(現在の烏丸五条あたり)に妙塔山妙満寺を建立しました。
(妙満寺HPより)
妙満寺
お参りさせて頂きました
妙満寺
仏舎利大塔
妙満寺
本堂からの比叡山
拝観受付をすると 拝観案内説明頂き まずは御本堂へ入らせて頂きました

妙満寺
安珍・清姫の鐘
「鐘に恨みは数々ござる」で知られる紀州道成寺の霊話は長唄、歌舞伎等の芸能に取り入れられています。その物語に縁あるこの鐘は数奇な運命で当山に伝わりました。
 正平14年(1359)3月31日、道成寺では安珍・清姫の伝説以来、永く失われていた鐘を再鋳し鐘供養を盛大に営みました。すると、その席に一人の白拍子が現われ、舞い終わると鐘は落下し、白拍子は蛇身に変わり日高川へと姿を消してしまいます。その後、近隣に災厄が続いたため、清姫のたたりと恐れられた鐘は山林に捨て去られました。
 それから200年あまり経った天正年間、その話を聞いた「秀吉根来攻め(1585)」の大将・仙石権兵衛が鐘を掘り起こし京都に持ち帰り、妙満寺へと納められました。そして、時の貫首・日殷大僧正の法華経による供養によって怨念を解かれ、鳴音美しい霊鐘となったと伝えられます。(妙満寺HPより)
妙満寺

安珍・清姫の鐘にちなんだ御朱印が有りました

妙満寺
御本堂中からも比叡山ニコニコ
そして有名な雪の庭へ
妙満寺
素敵なお庭ですね~~
お座敷に椅子や座布団が一列に並べられ
此処から見て下さいね~っていう事ですね!?
雪の庭
俳諧(俳句)の祖といわれる松永貞徳(1571~1653)が造営した枯山水の庭苑であり、清水寺の「月の庭」、北野天満宮の「花の庭」とともに、名庭「雪月花の三庭苑」と並び称されています。
 三庭苑を作庭したと伝えられる松永貞徳は日本の古典に精通し、歌人として連歌を学んだのち、俳諧という新しい分野を開拓した文学者であり、多くの文化的遺産を遺しました。
 妙満寺の塔頭 成就院の時の住職・日如上人が貞徳の門下であった縁から、貞徳はこの「雪の庭」を造営。寛永6年(1629)11月25日、初となる正式俳諧興行として「雪の会」が妙満寺にて催されました。これにより俳諧は、それまでの連歌から独立した文芸として認められるところとなり、後に松尾芭蕉や与謝蕪村などを輩出して確立し、今日に至っています。妙満寺は俳諧(俳句)発祥の地といえます。
 昭和43年に妙満寺が中京区の寺町二条からこの岩倉の地に遷堂した際、石組みをそのままに妙満寺本坊の庭苑として移築されました。
 その名の通り、冠雪の比叡山を借景とした眺望が最も美しい庭です。
「雪の庭」は、妙満寺が京都寺町から岩倉へ遷堂した際、石組みをそのままに移築され、忠実に再現されました。
 しかし、岩倉遷堂から50年の月日が経過し、長年懸案となっていた各所の傷みや老朽化、植生の変遷や時折に加えられた石灯籠などによって生じた庭園全体のバランスの是正などに対応し、さらには近年増加する豪雨に対する排水設備等の充足を図るため、令和4年1月、「令和の改修」として大規模な改修事業が行われました。
 松永貞徳が作庭した既存の石組みはそのままに、借景となる比叡山から庭・本坊の建物が一体となった「庭屋一如」の松永貞徳の世界観をより再現した庭園へと生まれ変わった姿をご覧ください。
(妙満寺HPより)
誰もいません
贅沢にお庭を独り占め 堪能させて頂きましたニコニコ

(パンフレットからお借りしました)
雪が積もったお庭も機会があれば拝見したいです


雪の庭の美しい御朱印を頂きました
2024年4月