鷲ノ木から約1時間半車を走らせて、せたな町の旧丹羽村地区到着です。
ここは、旧会津藩士丹羽五郎が一族郎党、そして猪苗代の打越・富永地区の農民を連れて移住し開墾した土地で、今も「丹羽」という地名に残っています。
ここには「玉川公園」という「玉川神社」を中心とした広い公園があり、そこには日本に3ヶ所ある白虎隊墓の一つ
「会津白虎隊玉川遥拝所」があります。(あとは2つは会津と、青森の三戸です)19名の名前をそれぞれ会津縁の人々が書いていて、中には「丹羽五郎」自身以外に「十倉綱紀」や「宗川虎次」弟の「丹羽七郎」「丹羽八郎」、
「柴五郎」「出羽重遠」「藤沢正啓」等著名な人々の名前が見られます。
また、その直ぐ側には、西南戦争に丹羽五郎が「警視抜刀隊」として参加した際に、田原坂の戦いで戦死した33名の部下の死を悼んで三十三観音にちなんで三十三基の墓標を建立した「三十三観音」もあります。丹羽五郎の人柄が偲ばれます。
また、駐車場の下辺りには、「丹羽五郎翁頌徳碑」や「丹羽五郎胸像」などもあり、また玉川神社には御神体として「丹羽五郎の愛剣」を祀っているという。
ここから「能教寺」へ。この寺の名前「能教」は五郎にとって尊敬する義理の祖父「丹羽勘解由能教」の名前から仮で命名したものが、そのまま定着してしまった寺。
某人名事典には、丹羽五郎の墓所が「能教寺」となっているので、問い合わせしてみると、この寺ではなく、少し離れた共同墓地の山の上にあ るというので、早速行ってみる。
兎に角暑い蒸し風呂のような中、山の頂上まで上りましたとも。(山が羽黒山とか大窪山とか程でなくて良かった…)ありました、「丹羽五郎墓」。見た感じ、近年全て建て直しされたような感じ??全て新しかったです。
丹羽家墓所からは、丹羽村が見渡すことが出来る景観良い場所でした。自らが切り開いた丹羽村を愛したからこそ、この場所に墓所を決めたのかしら??
ここから西丹羽地区へ行き、「荷卸の松」丹羽村発祥の地へ行き、そこから旧会津町へ。
旧会津地区は、合併した後、既に地名にすら残っていませんが、この一帯は会津藩士達が移住してきた場所で、五郎達も、当初上陸後しばらく滞在したのが、この会津地区にある「事比羅神社」で、また三本杉と呼ばれる巨石が見える近くの旅館にも投宿したという。
その後、若松地区へ。ここも会津人達が移住してきた場所で、ここは地名が残って居るものの、史跡自体は多くは残っていませんが、若松神社前の「開墾百年記念碑」と法覚寺前の「若松開拓記念碑」があります。