平安時代 に日本の世俗的な風物を描いた屏風絵や障子絵を
「大和絵(やまとえ)」と言いました。
これは中国的な主題を扱った「唐絵(からえ)」に対する用語なのです。
大和絵例:伝・源頼朝像(神護寺三像のうち)
作者不詳
大和絵の手法で実際の人物を写実的に描写した肖像画は
「似絵(にせえ)」と呼ばれており、土佐派の先祖である
藤原隆信、信実父子や豪信が有名。
大和絵の題材・技法・様式を伝承し発展させた土佐派
14世紀、宮廷絵所絵師の藤原行光が伝統を継承し、
土佐(藤原)光信が画風を確立したので、土佐派(とさは)と
呼ばれるようになりました。
光信は特に絵巻物や肖像画を得意として、公家や寺社、武家のために
多くの作品を描き、土佐派の名を大いに高めました。
槻峰寺縁起絵巻・2巻 紙本着色
1495年(明応4年)・ワシントンD.C. フリーア美術館
土佐光信(とさみつのぶ)
狩野派に負けて土佐派の凋落(泣)
室町時代は中国風の画風をベースとする狩野派と並び、宮中や幕府の
御用絵師や絵所預をつとめ、日本画の二大派閥として大和絵を発展させた
土佐派でしたが、障壁画隆盛の安土桃山時代になると、
狩野派が大躍進を遂げたのに対し、大和絵の名門であった土佐派は
公家の衰微も手伝って16世紀中葉以降凋落してしまったのだ。
宮廷絵所職も失い、堺に逼塞を余儀なくされてしまいました。
(陰の声:ここでもスポンサーと共倒れだね (x_x;)
しか~し、長い歴史を誇る大和絵=土佐派は簡単には消えなかった。
江戸・元禄時代になると土佐光起が従来の温雅な大和絵に克明な写生描を
取り入れ、京都御所の襖絵、杉戸絵を描き、後水尾天皇の覚えめでたく
宮廷の絵所預職に85年ぶりに復帰し、従五位近衛将監に叙されたのだ。
土佐光起には「三十六歌仙図屏風」や「百人一首」などの作品も有り、
その清新な画風で、京都を中心に土佐派は大和絵の伝統を守りました。
江戸にも進出・浮世絵の先駆者も生む
土佐派の影響を受けた住吉具慶(すみよしぐけい)は東照宮縁起絵巻を
完成させて、徳川綱吉に江戸へ召し出され、狩野派に独占されていた
幕府御用絵師の一角に大和絵絵師が初めて進出した。
また、岩佐又兵衛は大和絵の流れを汲み、物語絵だけでなく、
当時の風俗や人々の生活も描き浮世絵の先駆者と言われている。
(陰の声:へ~ 浮世絵の源流は土佐派なんだ(?)
でも、本家土佐派から見れば異端者なんだろうけど異端者が
新しい時代を作るんだよね(^_^)v )
<日本画ワンポイント>
◎日本画の絵具 -1:岩絵具
日本画にはいろいろな種類の絵の具がありますが、
今回は岩絵具(いわえのぐ)を説明します。
孔雀石(マラカイト) 天然岩絵具・粒子のいろいろ
孔雀石、藍銅鉱、瑠璃(ラピスラズリ)などざまざまな色をもつ
鉱石、半貴石を砕いた顔料のこと。
粉末の目の細かさは番数で区別されており、一般的には大きい方から
5番~13番、一番細かい14番はなぜか「白(びやく)」と呼ぶ。
同じ材料でも番数で色合いやマチエールが変化します。
天然岩絵の具は大変高価なので、人工代替え物として、新岩絵具や
合成岩絵具なども作られている。
いずれも、粉末状の顔料(絵の具)であり固着力がないので、固着材として
膠(にかわ)で混ぜて錬成して使用する。
蛇足ながら製法は違うが、これら顔料を乾性油で練れば「油絵具」になり、
アラビアゴムやグリセリンなどで練れば「水彩絵具」になります。
<日本画の知識:その3・土佐派・了>
スーラ・ウタガワの
私撰:関西名所図絵・美術館のご案内
このブログの各ページで個別に発表した、スーラ・ウタガワ作品の
名所絵を場所別に集め「美術館」と称して再度アップロードしています。
第1室:大阪南部の名所図絵 開館中
第2室:大阪北部の名所図絵 開館中
第3室:大阪湾岸部の名所図絵 開館中
第4室:神戸地区の名所図絵 開館中
第5室:京都地区の名所図絵 工事中
*各展示室へのご入場(アクセス)はサイドバーのブックマークをご利用ください。
以上、ご案内申し上げます。 館長:スーラ・ウタガワ