福澤諭吉は第14篇「人生設計の技術」で”心の棚卸し”という表現で、自分の人生を点検することを勧めています。

 「生まれて今まで自分は何事をなしたか、いまは何事をなしているか、今後は何事をなすべきか」と自身の点検に触れ、人生を商売に例え、その状態を明らかにして、今後の見通しを立てるものは帳簿の決算だ。自分自身の有り様を明らかにして、今後の方針を立てるものは、知性と徳と仕事の棚卸しであると言っています。

 福澤諭吉はよく物事を商売に例えます。一国の経済の話であっても、身近な商売の話として語り、お金のドライなやり取りとしての商売のみならず、道徳的な感性でその成功、失敗、可能性を語ります。

 僕自身も感じることですが、会社のバランスシートとか損益計算書の読み方を覚えることは経済活動にとって大切なことではありますが、その分析的視点は単にお金の流れを追いかけることのみならず、そのお金の流れを作っている人間の動きにまで及ばなければ意味がない。1880年(明治13年)にそのことを語る福澤諭吉はすごい。

 常に分析的視点を持ち、情緒に流されることなく、物事を見極めていく。しかし、こうも言っています。「結局、世の中の事情の変化は生き物であって、前もってその動きを知ることは簡単ではない」。福沢諭吉の分析的視点であっても読み切れるものではないというある種の諦念。だからこその分析手法があるということなのでしょう。物事の難易度と時間の長短を比較することは難しい、だからこそ常に棚卸しをして検証を続けなければならないと語ります。

 また同じ14篇の中で”世話の意味”についても書いています。世話には保護と指図の二つの意味があり、それを一致させていかねばならない。「人民は税金を出して政府に必要な費用を負担し、その財政を保護するものである。なのに、専制政治を行なって、人民の意見を言う場所もないというのは、これは保護の方は達成されているけれど、指図の道が塞がっているものである」と言います。

 税金を搾取される、という視点ではなく、人民主語の保護として語っていることに新鮮さを感じます。

 あくまでも守護は人民、市井の人である。その考え方強固なことが福澤諭吉らしさ。

 そこにあるのは世の中の人たちのことを思う「愛」です。

 人生は必ず終わりがあり、死に向かってのカウントダウンです。だからこそ、その時間をどう生きるか、どう使っていくか、どうすれば無駄にしなくてすむのか、を常に考え、検証しながら前へ進むことが大切。

 僕自身も身を引き締めて、今日一日一日を無駄にせずに生きていこうと思います。