梅の花でおなじみの菅原道真公の
生誕地で、学問の場所であった神社が
京都市内の真ん中にある。
菅大臣神社である。
地下鉄烏丸四条駅(阪急烏丸駅)から
南へ行くと、二筋目に仏光寺通り。ここから5分位の道のり。
現今、現職の大臣トップと名前が
似通っているので、ちょっとの感じは
したが、前へ進んでいきたい。
関係のお宮さんから写真を
拝借した。道真公のお姿の様子。
道真は祖父、父と続いた学者の血筋を受けて
承和12年(845)に生まれる。
少年時代から、秀才の呼び声が高く
18歳で文章生、26歳で方略試(官吏任官試験)に
及第し、エリートの道を進む。
特に、方略試は8世紀から230年間に
65人しか、合格しなかったといわれる。
いまでいう、超の字がいくつもつきそうです。
当時の大学の中で有力といわれたのが
菅原道真の、主宰する「菅家廊下」。
この結果、菅原家の大学を卒業した人が
どんどん高級官僚になっていく。
全盛時代には京都の宮廷で
100人以上の高級官僚が,
菅原道真の
大学の卒業生だったという。
道真は人生で3回、挫折の経験をしたといわれる。
1回目は、今の香川県である讃岐守としての赴任。
都の送別会で,
悲しみで号泣したといわれる。
京に生まれ育った,,都会派教養人の初めての
地方生活。彼は「日の長きに苦しむ」と嘆いたそうである。
この地で過ごしたのは、42歳から4年間。
道真46歳。讃岐から都に帰った彼は
時の宇多天皇に才能を認められ
立身出世の階段を登り始める。
2回目の挫折。
道真の遣唐使への任命事件。遣唐使になり
中国に行くと数年間,,中央政界を離れる事になる。
そこで、この制度の廃止する案を出して
これに成功する。
2回目の挫折は、うまく切り抜けた事になる。
昌泰2年(899年)、道真は右大臣となり
ライバルの藤原時平は左大臣に。
しばらくは、道真と時平は宮廷内のバランスを保たれていた。
しかし、道真57歳の時に
突然、九州大宰府への左遷。権力闘争の結果という。
これより先に,宇多天皇は醍醐天皇に位を
譲られた。醍醐天皇の弟に、斉世(ときよ)親王がおられて
この方の夫人が、道真の娘であるところから
道真は斉世親王を天皇に擁立する陰謀に
加担したという疑いをもたれのが、失脚のひとつともいわれる。
要は醍醐帝と藤原時平の政権クーデターに屈する格好で
大宰府へ配流という事になる。
時代は律令制から、摂関政治に移行する節目にあった事も
背景にあったとされる。
千年前の大宰府は、豪壮な楼閣があり
きらびやかな貴族の牛車が、往来して
「遠の朝廷」と呼ばれていたという。
しかし、太宰府での道真は粗末な宿舎で
流人同然の、生活を送ったという。
延喜三年(903)二月、道真は59歳で亡くなる。
道真のなくなった後は
京都で、天変地異が起こる。
干天、流星、大地震などが続く。
道真の怨霊が京に舞い戻ってきたとして
人心は乱れる。
このため、朝廷は神社をつくり
道真の霊を慰めることになる。
これが機縁となって太宰府天満宮や
北野天満宮が出来る事になる。
現在、全国の神社の総数は約8万。このうち
いわゆる天神さんは1万1千を数えるという。
菅大臣神社の本殿。
応仁の乱などで、以前の社殿は焼失。
今の本殿は明治2年に
下鴨神社の旧殿を移築。
有名な道真の「東風吹かば にほひをおこせよ梅の花~~」の
和歌は、この地で詠まれたという。
飛梅の地とされる。
境内は広く、多くの社殿があるが
見慣れた、北野天満宮とはちょっと違う雰囲気を感じる。
京都の都市化が、影響しているのかもしれない。
所在地は、京都市下京区仏光寺通新町西入菅大臣町










