京都と東京のバー・おそめの時代 | 世情いろいろ

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日々、思いついた事、感じた事を写真をまじえながら
記録していきます。そして季節性を取り入れながら。ジャンルは
多岐、多彩にと思っています。

 

 戦後間もない頃に

京都の木屋町仏光寺の高瀬川沿いに

「おそめ」というバーがあり

 文壇関係者や財界、政界、マスコミなどの

関係者にもてはやされた。さらに

東京銀座にまで進出して

 京都、東京を飛行機で往復する

「空飛ぶマダム」という、異名をとった女性がいた。

 

 その名は上羽 秀という。

 

 秀は京都の河原町三条の

炭の問屋を営む家に生まれた。

家庭の事情があり、小学校を卒業すると

 東京に行き、芸妓修行に励む。

 

15歳の時に京都に戻り

祇園の舞妓になろうとする。

 しかし、踊りが井上流でないため

舞妓にはなれず、芸妓として祇園でデビユー。

 

 その美貌と人柄が買われ、売れっ子の毎日。

ただ、こ世界のしきたりで

 著名芸能会社の有力者に落籍される。

しかし、この縛りに嫌気を感じこの有力者から

円満に離れ、その上、木屋町仏光寺に

 住む家を与えられる。

 

ここに、バー「おそめ」を開店し

 各界の有力者が、たくさん訪れる事になる。

特に文壇関係の客が目立ち

大佛次郎、川端康成、吉井勇など

 祇園時代のひいき客が多かった。

 

 

 おそめの店内。木屋町仏光寺。

 

 

 

昭和32年の大みそか。

除夜の鐘を聞く川端康成と秀。

 

 上羽 秀が本名。おそめは呼び名であり

店の名前。

 

 秀は大佛次郎の京都を描いた小説の

ポイント地点の案内役をつとめる。

大佛の小説「帰郷」宗方姉妹」「風船」は

 主に京都が舞台。

おそめははからずも、観光京都の売り出しにも

一役買った人になる。

 

 

 

 鎌倉での作家里見弴の家での

大佛次郎。右から3人目。その左隣が秀。

その左が映画監督の小津安二郎。

 

 秀が鎌倉に遊びに行くと

いわゆる鎌倉在住の文士たちが集ったという。

 

 昭和30年。秀は数えの33歳。

舞台美術家の伊藤嘉朔兄弟の

誘いと勧めで、東京銀座に店を持つようになる。

 

秀も、東京にある種の親しみ持っていたので

異存はなかった。

 

 

 銀座時代の店内の作家丹羽文雄と秀。

 

しかし、銀座にはライバルのバーが多くあった。

 その確執も大変だったようである。

 

 

 銀座のバー「エスポワール」のマダムである川辺ルミ子。

後年には仲よくしたという。

 

  

 

 祇園時代の秀には

ダンスホールで知り合って

生涯の連れ合いになる俊藤浩滋という

人物がいた。

 この人が、かっての東映の任侠映画時代の全盛を飾った

プロデューサーになる。秀の後押しがあったという。

 

 

俊藤と秀のツーショット。

 

 

 

 俊藤は、秀と一緒になる前には

本妻と子供3人がいた。

 その娘の一人が、任侠映画に多く出演する藤 純子。

思えば、藤 純子の任侠映画は当時

大きな話題になった。父親の俊藤の力添えも見逃せない。

 

藤 純子は

NHK大河ドラマの静御前の役を希望したそうである。

 この実現にも、題材の作者村上元三に、秀が頼んだ結果という。

 

 

 空飛ぶマダムの秀。(右)。伊丹か羽田かはよく分からないが。

 

京都と銀座を往復する秀にも

時代の波が打ち寄せる。

 

 木屋町仏光寺の店をたたみ、河原町御池付近に

新しく「おそめ会館」をつくる。

 しかし、当時のニセ洋酒事件に巻き込まれ

凋落の一歩をたどる。

 

 間もなく、おそめ会館も売却し

銀座の店だけで、毎日を過ごす事になる。

 こんな日々も長くなく、銀座からも撤退。

 

それは昭和53年2月。

30年間続けていた、「おそめ」の終焉である。

 

 その後、岡崎に能舞台付きの豪邸をつくり

憩いの場にするが、それも後に

 修学院離宮近くに居宅を変える。

 

 そして、数年前に90歳近くで、その生涯を終えたという。

 

 

このブログ記事は、主に石井妙子さんの著書「おそめ ~伝説の銀座マダム~」(新潮文庫)を

 参考にさせてもらった。

優れたドキュメンタリーで

 読み応えが充分であった。