



市バス車窓から、維新の元勲である桂小五郎の
銅像が見えた。
河原町通をはさんで京都市役所と
向かい合わせにある京都ホテルオークラ。
このホテルの玄関前に幕末の志士で
明治初期の政治家だった桂小五郎の
銅像が置かれている。
この付近は長州藩邸のあつたところで
長州出身の桂小五郎を顕彰するモニュメントである。
四條通から木屋町、河原町にかけての北側は
淀川と結ぶ高瀬川が流れ、幕末には高瀬川は物資輸送の舟運と同時に
伏見、大坂の淀川に通じて人の往来の
水路としても役目を果たした。こんな関係もあり
この付近は長州藩邸、土佐藩邸のあったところで
また、坂本龍馬らの寓居跡や池田屋騒動も見られる。
桂小五郎は、この長州藩邸を拠点に維新に向け
活動を続けた。
初めは桂小五郎と名乗ったが、後に木戸孝允(1833~77)。
吉田松陰と交わり、尊皇攘夷運動に加わる。
長州藩の政治指導者として、薩長同盟に努め
倒幕運動のリーダーになる。
明治維新後は五箇条誓文の作成、版籍奉還にあたるほか
西郷隆盛らと共に廃藩置県にあたり、岩倉遣外使節にも参加。
こうした履歴をあげると、維新前後に活躍した
桂小五郎の人物像が浮かび上がってくる。
ただ、”逃げの小五郎”というイメージも残されている。
幕末の池田屋騒動の時は、参加人数が少ないのを理由に
用事で外に出かけ、新撰組攻撃の難を逃れている。
また、蛤御門の変の時には捕らえられるが
厠へ行くすきに、脱走するなどそのエピソードは多い。
しかし、「三十六計逃ぐるに如かず」という
中国古代の知恵もある。
つまり、逃げる時には逃げて身を全うするのが
兵法上の最上策というわけである。
困った時には、逃げるのが最も得策であるという意味にも通じる。
ここで、思い出すのはこの1月の麻生首相の施政方針演説で
「私は逃げないの」の文言があった。ちょっと紹介すると。締めくくりの後半部で
「~私は決して逃げません。国民の皆様と共に
着実に歩みを進めてまいります」と。
これは1年で、政権を放り出したと世間でよく言われる
安倍、福田政権の事を指しているのか。
それとも不退転の決意なのか。微妙な感じがしないでもない。
話は戻るが、桂小五郎は44歳の生涯だったが
最期は病床で、かつての同士だった西郷隆盛の
西南の役に見られる反乱を気にかけながら
息を引き取ったといわれる。
昨今の世情は経済の波乱模様。政局も波乱、反乱含みの匂いも漂っているように
思える。百年に一度の転換期か。