







豊臣秀吉が創建。秀吉はここに木造の大仏を作らせる。
有名な治安維持の刀狩の口実に使われる。刀の金属を大仏の鋲、釘にして
使うというものだった。刀狩の後は大仏は放置される。
慶長5年の関が原の役で、家康が天下の支配権を握る。
しかし家康がおそれたのは、豊臣家の財宝だった。そこで家康は
秀吉の息子の秀頼にすすめて、秀吉の供養などを兼ね銅の
大仏を作らせる事になる。秀頼はしぶしぶ、奈良・東大寺の大仏より
大きい大仏を完成させる。次に家康は鐘を作らせる。
その銘文に「国家安康 君臣豊楽」の8文字が刻まれていた。
これを家康は、豊臣家の再興などの呪文であるとクレームをつけ
大阪の陣が起こる。豊臣家は滅びてしまう。
この鐘は今も残されている。大阪の陣を正当化する為の証拠物件の
意味合いを持たせたともいわれる。
一方、銅製の大仏は三代家光の時に、江戸へ運ばれて分解され通貨に
作り変えられる。これを「寛永通宝」と呼ばれる。この通貨は以後
明治の27年頃まで通用。大仏さんが通貨に変身したわけである。
ちなみに木造の大仏は歴史の紆余曲折を経て昭和48年に焼失、鐘の横に
その遺物が置かれている。
※ 参考 京都の旅(松本清張 樋口清之著 光文社文庫)など。
写真 石垣は秀吉の頃のもの。駐車場は木造大仏が置かれていた所。
8枚目は方広寺、豊国神社、耳塚界わい。