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皆さん、こんにちはおねがいラブラブ

 

今日は信仰についての説教内容です。

何かを信じる「信仰」とはなんでしょうか?

 

多くのクリスチャンが信仰の戦いにおいて

倒れてしまう時に自分はもうだめだと失望しますあせる

 

しかし本当に信仰を持っているなら

そんな時こそ赦してくださると言ってくださった神様の御言葉を信じて立ち上がるのです!!

 

そして更に大事な事は

赦していただき、立ち上がったからこそ

今度は同じ失敗をしないようにする「行い」が大切なのです!!

 

 

「信仰」と「行い」は絶対に切っても切り離せませんお願い!!

 

 

 

 

 

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私達はイエス様を信じています。またイエス様の十字架と血の力を信じています。私達と神様の間で執り成しの祈りを捧げられるイエス様の御名を信じ、最後まで私達と一緒におられるという御言葉を信じています。また、イエス様が私達を天に迎え入れてくださるという約束を信じ、永遠の天国を信じています。私達はこのような信仰を基礎にして信仰生活を送っていると考えています。

しかし、何をどのように信じることを信仰と言うのでしょうか? 信仰によって信じるというのはどのようなことなのでしょうか?

私たちは見えないものも信じています。信仰によって神様の御言葉でこの世界が創造されたことを信じます。信仰がなければ知識そのものが存在しません。

私達が信じないなら、知っているという知識は存在しません。2+2=4です。なぜでしょうか? そのように公式を作ったからです。その意味で信じると言うのは知識の基礎です。

何かの知識を持つ時、先に信じないなら知識は生じません。私達が空をあおいで、太陽や星、月を見ます。地球の自然を見ます。私達がこれらを見て、これを創造された神様がおられるという事実を信じるとき、私達の信仰に知識が生じます。

私達が物を見る目、聞く耳、においを嗅ぐ鼻など、目に見えて感覚で感じられるものは具体的な証拠があるのでその存在を受け入れることができます。

しかし、その目や耳や鼻などを創造された神様の力は目に見えません。私達は、その目に見えない神様の力を目に見えるように信じなければなりません。信仰は私達の知識と経験のすべての基礎でなければなりません。

 

イザヤ書1章18節を読みます。

「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」。

皆さんこの事実を信じますか? 信じるなら、どうして神様の赦しを疑うのでしょうか? 多くの人は聖書を信じ、神様の赦しの約束を受けたにも関わらず、疑ったり不安を感じたりしています。その主な理由は信仰が足りないからであって、神様が変わられたからでも、主の約束が揺らいだのでもありません。

このイザヤ書の神様の約束を信じることによって私達の救いが始まるのです。それが信仰です。

イエス様は私達の汚れた罪を、この世のどんな洗剤もこれ以上白くできないほど白くして下さると書いてあります。イエス様が私達に与えてくださるのは義の白い衣です。それはイエス様の品性という衣です。イエス様が私たちの心を雪よりも白く創り変えて下さるという意味です。

このような約束があるにもかかわらず人々は赦しの確信がありません。すぐ罪悪感に負けてしまいます。

イザヤ書44章22節

「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」。

主が私達の罪を赦されるとき、私達の罪を忘れるという選択をされるのです。神様は忘れることは出来ません。すべてをご存知の方なので忘れることは出来ません。しかし、私達が真実に悔い改め、自分の罪を悲しみ、その罪を捨てるなら、主は私達の罪をお忘れになるのです。雲や霧が消えてしまうように忘れてしまうと約束してくださいました。これが主の赦しです。このような約束があることを知っているのに、なぜ私達の心は揺らぐのでしょうか? それは信仰の量が不足しているからです。自分の信仰の分量はどのくらいなのか、このことを深く考えてみてください。

私達は信じることによって知識を得るのです。信じるとき知るようになります。もちろん、創造の十分な証拠があります。ノアの箱舟の十分な証拠があります。それでも聖書に記録されている御言葉を信じなければなりません。聖霊が与えられる約束があります。それでも私達は聖霊を求めて祈らなければなりません。その時主は私達に聖霊を与えて下さるのです。

神様を知るには私達の全面的な協力が必要です。あの人は信仰が強いとか、あの人は信仰が弱いとか言います。それは信仰の分量についての話です。

結局、私達は信仰によって知り、信仰によって与えていただくのです。信仰によって生きるのです。

ローマ人への手紙4章18から24節です。

「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである。しかし『義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである」。

 

アブラハムは手の言葉を信じました。彼に一人の子供もいなかった時、彼は主の御言葉を信頼しました。アブラハムが神様を知ること、主の御言葉を受け入れること、そのすべての始まりは彼の信仰でした。主の約束を信じる信仰でした。主の御言葉を信じる信仰でした。

これは皆さんよくご存知の聖書ですが、アブラハムのように信仰を正しく活用しないために、信仰の分量が少ないために、多くの人の信仰は上がったり下がったりを繰り返します。世と罪に対して勝ったり負けたりしています。

目に見えるものに振り回されて上がったり、下がったりします。私達は目に見えない信仰によって生きるべきです。この信仰の分量の差がクリスチャンの生涯に大きな違いを生じさせます。

信仰があるように見える人もそうでない人も、結局上がったり、下がったりしています。なぜなら目に見えるものに頼っているからです。

信仰はすべてを無くしたように見えても、勝利する未来を見る目です。今は何も見えず何もないように思えても、天におられる豊かな父を信じる信仰によって生きていかなければなりません。目に見えないものを見えるようにして生きるのです。

アブラハムは、最初このような命令がほんとうに神様の言葉なのか信じることが出来なかったかもしれません。最初からアブラハムは信仰があって、神様の言葉を信じたわけではないと思います。

理解できなくてもアブラハムは考えました。この方は創造主であり、約束してくださった方で、全てを存在させ自分の生涯を導いて下さった神様だと考えました。アブラハムが小さなその信仰を生かしていくうちに、信仰は堅固なものになりました。

アブラハムも信仰を活用して信仰の分量が大きくなったのです。神様がイサクを供え物として捧げなさいと命令された理由は、アブラハムの信仰がこの世に勝利する信仰になったことを人々と全宇宙に現すためでした。

そして、最後の時代にはイエス様のような信仰を持って、神様の戒めを守る者たちが出現します。彼らはアブラハムの信仰を持っている者たちです。信仰の分量が大きくなります。それは毎日少しずつ信仰を活用して、今日の信仰が明日はもっと大きくなるための基礎となるようにしてきたからです。ですから私達は小さな信仰でも毎日正しく働かせる必要があります。

主が約束してくださった事は必ず成し遂げられます。今私達は、主が約束してくださった時から、成し遂げて下さる時の間に生きています。そして最終的に成し遂げて下さるその時を、私達は今日、自分に成し遂げられたかのように信頼して生きていかなければなりません。成し遂げられるかどうか疑うなら、私たちはまっすぐ神様に進んで行くことができなくなるのです。

ですから、その約束が成し遂げられたと信じる信仰によって、自分の生涯が管理されなければなりません。そのようにする時神様に栄光をお返しできるのです。

 

皆さんは自分の罪が許されたという証拠が見えますか? 私も見えません。

聖書に書いてあるので、私達はただその聖書のお言葉を信じればいいのです。赦しは神様の約束を信じる時起きる神様の恵みです。

信仰をどのように活用するかによって、私達の信仰の分量によって、赦されるのです。同じ約束が与えられているにも関わらず、ある人は信仰が揺らいでばかりいます。イエス様の清い義を私達に与えて下さるという約束を私達は信じなければなりません。

難しいですか? そうです。難しいです。しかし、主が私達の心の中に入れて下さった信仰の希望があります。それに聖霊様の感動があります。また多くの証拠を見せてくださいました。聖書の御言葉を与えて下さいました。

全く信じられないことを信じるようにと強要しておられるわけではありません。信仰の分量を増やすために、私達は毎日信仰を活用しなければなりません。

私達は信仰によって義を与えていただけます。

神様は、深い海の底に私達の罪を投げ捨てると、私達が理解できるような具体的な表現で、救いを約束してくださいました。私達はそれを信じるべきです。

この約束はアブラハムに対する約束だけではありません。私達のためでもあります。それが実際に私たちの心の中に刻まれなければなりません。

次はローマ人への手紙1章16,17節です。

「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである」。

 

神様の義はどのようにして私達に与えられるでしょうか? イエス様の義を私達はどのようにして受けられるのでしょうか? どのようにして私達が義なる者として認められるでしょうか? ただ信仰による義なのです。信仰がなければ義なる者になることはできません。

信仰からもっと堅固な信仰へ、そして動かされることのない信仰へと成長していくのです。そのとき、イエス様の義が私の中に成し遂げられるのは、私達の信仰の分量によってです。皆さんは心の中にどのぐらいの信仰をお持ちでしょうか? 主の約束をどのぐらい信じていますか? 

私達の祈りの答えは私達の信仰の分量によります。私達の赦しの経験は信仰の分量によります。私達の救いの経験も私達の信仰の分量によります。私達が義なる者になれるかなれないかは私達の信仰の分量によるのです。このことを聖書は教えています。

私達は信仰によって生きています。私達は信仰がないと生きられません。信仰がないと、この世のストレスと心配事につぶされて生きておれなくなるのです。

この世で自分の十字架がない人は誰もいません。悲しみや寂しさ、自分の重荷を背負わないで生きている人は誰もいません。そいう意味では、この世は公平です。子供もお寄りも、みんなこの世が与える重い荷物に押しつぶされそうに生きています。しかし、私達は信仰をもって未来を眺める人たちです。

人々が絶望に陥るような時、ストレスと心配事で生きていたくないと感じるような時、私達は神様が与えて下さる義の衣を着なければなりません。主が与えて下さる赦しの約束が、今日も自分の中に満ちていなければなりません。それは私達の信仰の分量によって可能な事です。

疑いが生じ信仰がなくなると神様が見えなくなり、救いが消えてしまい、天国がなくなり、神様の赦しが感じられなくなります。それは私達の問題です。神様が変わられたのではありません。

主の赦しには制限がありません。私達が罪を告白して神様を信じるなら、どんな罪でも許されます。赦しは私達の信仰の分量によるのであって神様の約束が変わったのではありません。神様の約束は今も継続して有効です。

今日の信仰は明日の信仰の基礎です。また私達は信仰を活用することによって信仰の分量が増加しなければなりません。そのようにした人が最後の時代に主の証人となるのです。

証人とはイエス様の信仰を持っている人のことです。イエス様が十字架で亡くなられた時、神様に対する信仰が100パーセントありました。一つの揺るぎもありませんでした。イエス様は自分の魂を神様にゆだねるとおっしゃることが出来ました。すべてを成し遂げたと宣言することが出来ました。それがイエス様の信仰でした。

この世の人々はお金に頼り、権威に頼り、彼らの幸せな立場や雰囲気に頼って生きています。しかし、世の中から押し寄せてくる重荷に耐えられません。しかし、私達が信仰を持つことに成功すれば、この世に勝利する事ができるようになります。皆さんは今どのような問題がありますか? 子供に問題がありますか? 経済的に問題がありますか? 肉体に問題がありますか? 人間関係に問題がありますか?

イエス様が私達を迎えに来られ、私達を連れて天へ行かれる時、今皆さんが抱えている問題が存在するでしょうか? 目に見えるすべてがなくなってしまいます。

肉体の色々な問題もなくなるでしょう。人間の悪い関係もなくなるでしょう。世の中のストレスや心配事、悲しみもなくなります。それらはやがてすべてがなくなるのです。

それなのに、なぜ私達は目に見える物に頼って生きているのでしょうか? 目に見えない信仰で生きて下さい。その信仰によって勝利する人生にならなければなりません。

神様の御言葉と約束を信じることによって私達は義とされます。それは私達が義なる人生を送ったとか、義なる行為をしたから義とされるのではなく、主が私達を義なる者にすると言う約束を信じる信仰によって義なる者になるのです。

それでは、信じるだけでいいのでしょうか? 信じるというのは私達の生涯すべてを捧げる事を意味します。信仰は理性的に同意する以上のことです。自分の命をそこに投げ込むことです。それが信仰です。

主を信じる時、主の約束を信じる時、神様の力が私の中で成し遂げられることが信仰です。

主が私の中に働きかけて下さるのです。福音は信じる者を救う神様の力です。

主が約束してくださった創造の力です。神様の御言葉は、御言葉それ自体が約束であり、力です。能力です。そのことを信じることが信仰です。主の約束を信じる時、たとえば私の罪を赦し罪悪感を無くしてくださり、悪い心を無くし新しい心を与えて下さり、新しい動機と希望を与えて下さり、悲しみを喜びに変えて下さり、不安な心を幸せな心に変えて下さる主の創造の力が、私が信じるとき私の中で働きかけて下さるのです。それで福音は私達が信じる時、神様の力となるのです。

多くのクリスチャンは、自分が義なる者になったから神様が義なる者だと認めて下さると思っています。違います。主が義なる者にしてくださると言う約束を信じれば、主のその約束が私の中で主の力によって成就するのです。 

主は罪を赦してくださるのはもちろん、罪の結果まで治療してくださるのです。罪をたくさん犯したために歪んでしまった性格や、意志の弱さから私達をいやしてしてくださいます。神様は実際に罪からの救いを私たちにもたらして下さる方です。

神様の赦しは罪と罪の結果から私達を解放して下さるためのものです。そのために十字架があるのです。赦しをいただいたら神様の力が私の中に入り、働きかけて下さるので、いやしが起きるのです。罪の結果生じたすべてがいやされます。それが赦しです。信じるなら聖霊の約束が成し遂げられます。

聖霊の実は聖霊が私の中で実を成らせる木を作って下さらないと成りません。

それが福音の力です。主が私の中で救いの働きを行ってくださるのです。聖霊の実が成るような畑を聖霊を通して作って下さるのです。

 どのように畑を作ってくださるかというと、自分の心の罪が暴かれ、その罪を告白し悔い改めることによってです。

自分の心の本質が暴かれるのは、何か大きな事があった時だけではありません。私たちが毎日の生活の中で選択する小さな選択を通して、自分が暴かれていくのです。実際私達は、小さな事で評判が悪くなったり、おかしな人と思われてしまいます。

私達は毎日の生活の中で、聖霊の働きが自分の中に成し遂げられるように選択しなければなりません。御言葉に屈服し、主の御心を選択すべきです。

皆さんはこれまで、信仰を活用されたことはありますか? それとも失敗しましたか? 大丈夫です。今日から始めて下さい。やり直せばいいのです。そして、私たちは信仰から信仰へと成長していくのです。私達の信仰の分量によって神様は私達をお用いになることができ、信仰の分量によって義なる者になれるのです。信仰の分量によって最後の試練を乗り越えられるのです。

エペソ3章15から21です。

「こういうわけで、わたしはひざをかがめて、天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン」。

信仰によってすべてが成し遂げられるのです。神様が私達を救われることに制限があるとすれば、それは私達の信仰の分量の問題であって神様の問題ではありません。

このことはとても大事な私達の信仰の心構えです。信仰から信仰へと進んでいかなければなりません。今日働かせた信仰は、明日の信仰が大きくなるための基礎です。信じて下さい。信頼してください。神様を悟ってください。

ヤコブ書2章17から24節です。

「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」。

 

信仰は行いです。信仰は主の戒めを守ることです。信仰は主の御言葉を体験することです。信仰は賛美するのです。信仰は主の御心通り生活するのです。信仰は行いです。信仰と行いを切り離してはいけません。信じるなら必ず行為が伴います。このことを現代のクリスチャンは誤解しています。

ローマ人への手紙1章5節です。

「わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けたのであり」

信仰と従順は分離してはなりません。信仰と行いと従順は分離できません。それが福音です。

ヨハネの黙示録14章12節です。

「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。

どのようにしてイエス様は死んだ人を復活させられたのでしょうか? どのようにして病人を治されましたか? どのようにして水の上を歩かれましたか? どのようにしてイエス様は罪のない生涯を送られたのでしょうか?

すべてイエス様の信仰によったのです。父なる神様を信じるイエス様の信仰が大きかったので、イエス様のお祈り通り聞いてくださったのです。それがイエス様の信仰です。

 

これから主の残りの民には大きな苦難が襲ってきます。その時彼らはイエス様のような能力を表すでしょうか? その通りです。イエス様がなさったような奇跡が起きるでしょうか? その通りです。彼らは神様に対するイエス様のような信仰を持っているでしょうか? その通りです。

神様の戒めを守ることはもちろん、イエス様の信仰を持ち続けるのです。信仰から信仰へと成長して、イエス様が持っておられた分量の信仰を持つ者が現れなければなりません。そのような経験がこの番組をご覧の皆様に満ちることを切に祈ります。

 

お祈りします。

憐れみ深い天の神様、神様のお恵みとお導きを感謝します。主よ、私達は土くれにすぎないものです。そのため何も出来ないものですが、私達を神様の姿のように造り変えてくださる約束を感謝します。私達の信仰を増し加えて下さり、信仰から信仰へと育てて下さい。また義人は信仰によって生きるとおっしゃいました。そのような信仰で生きることができるようにお助けください。主よ私達の信仰の分量が成長しなければなりません。今日より明日、明日より明後日、信仰の分量が増加しなければなりません。そうでないと私達はこの世に勝利することが出来ません。主よ、私達をお助けください。私達に信仰を与えて下さい。イエス様の御名を通してお祈りします。アーメン

 

 

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聖書は一度も

一度の救いが永遠の救いだと教えた事がありませんあせる

 

 

イエス様が最後の十字架の死まで従順であられたように

私達も最後の最後まで従順で恐れおののいて自分の救の達成に努めなければならないのです!!

 

 

 

 

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使徒パウロという信仰の巨人、驚くべき信仰をもって使徒の務めを果たした人が、彼の熱烈な感化を受けて信仰の道に入った人々に、何と言っているか見てみましょう

ピリピ人への手紙212節から16節です

わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」。

 

ここでパウロは自分が育てた信仰の子供たちに、どんな願いをしているでしょうか? 彼は、あなた方に働きかけて救いの願いを起こさせ、働きを完成してくださる方は神様だから、恐れおののいて自分の救いの達成に努めるようにと願っています。

 

エゼキエル書を見ると、14章と18章に神様の大切な教えがあります。こう書いてあります。「ノア、ダニエル、ヨブの三人がそこにいても、彼らはその義によって、ただ自分の命を救いうるのみである」(エゼキエル14:14)。誰かの功績や罪によって、ほかの人が救われたり滅びたりするのではありません。また、「『父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく』というのはどんなわけか」(エゼキエル18:2)とあります。人は父親の罪によって滅びたり、反対に父親の義によってその子供たちが救いを受けられるのでもありません。人の救いは、あくまでもキリストの恵みによるその人自身の選び、責任だというのが聖書の教えです。予定説は神様をまるで無慈悲な絶対者に仕立て上げています。これは間違っています。そうではなく、私たちの救いも滅びも、私たち一人ひとりが責任を持たなければならないのです。

 

エゼキエル18章では、“義人がその義を離れて悪を行い、そのために死ぬならば、彼は自分の行った悪のために死ぬのである”と言われています。現代の多くの教会で教えられている、「一度救われたら永遠に救われる」という教えほど、誤びゅうに満ちたものはありません。イエス様の十字架を信じさえするなら、自分勝手に罪を犯しても必ず救われるというようなことがあるでしょうか? イエス様を信じている人も信じていない人も同じ罪を犯しているのに、一方は救われ、一方は滅びるというようなことが神様の愛と正義にかなうものでしょうか? こんな不公平な論理によって、神学的な教理が作られ多くの人が信じています。

人は正しい信仰を持って生きていたとしても、途中で信仰が後退して堕落してしまったら滅亡するのです。タビデは正しい生き方をしてきましたが、バテシバのことを悔い改めなかったならその罪によって滅亡したのです。

私たちは毎日毎日、恐れおののいて自分の救いを達成して行くべきだと教えられています。しかし、神様が私たちを救ってくださいました。そのことを信じましょう。それだけでよいはずですが、どうして救われないかもしれないと不安になるのでしょうか? 神様は私たちが反逆して、背を向けるまでは絶対に私たちを離されません。神様は愛の方です。それは永遠に変わらない愛です。私たちは人間をたくさん見てきて、だまされたり裏切られたりしてきたので、神様も同じようだと誤解しているのです。私が失敗したから神様は私を見捨てられると考えてしまうのです。

 

神様は太陽を昇らせ「私の愛は永遠不変だ」ということを、毎日啓示してくださっておられます。聖書には神様は義の太陽(マラキ4:2)と言われています。ですから神様は義の太陽のように変わりがない方だと信頼するのです。そうするときに、自然界のあらゆるものから、神様の愛の言葉を聞くことができるようになります。神様は月を造られた時、月の大きさも距離も回転の速度もすべてを調整して、潮の満ち引きも調整しておられます。

ノアの洪水の時におそらく地球の地軸が23.4度傾きました。神様は本当に合理的かつ科学的な方です。その時地球上の水を全部取り去って他の惑星に置いてもよかったし、蒸発させてもよかったのに、どうして地球にそのまま残されたのでしょうか? それは人を生かすための愛の配慮でした。

もし人間の望むとおりにすべて神様が許されるなら、たちまち宇宙の秩序は破壊されてしまいます。

今日も私はある一人の兄弟の相談を受け、共に祈る時間を持ちました。私たちはたくさんのことを祈らなければなりません。ところで、今この人の問題が解決したとしても、次にはあの人に問題が生じてそれを解決しなければなりません。次々とそのようなことが続けば、神様の創造の秩序が壊れてしまいます。神様はそのような方ではありません。神様は時間がかかっても合理的に、秩序正しく解決してくださるのです。

神様は私たちを罪と罪の結果から解放し永遠を与えてくださるのであって、私たちの生活の中の色々な問題をなくしてくださるのではありません。それで私はある時はお祈りをしないことがあります。誤解がないようにしていただきたいのですが、お祈りとは聖書を読んでいる中で神様について考え、心の中から湧き上がってくるものが祈りです。「神様!今日の交わりを通して、この言葉を聞いて感謝します。神様!私はこのことを悟りました。私のこの部分は間違っていました」。このようにみ言葉を通して与えられるものが祈りなのです。

 

私たちは、体の痛みや病気が快復するためには治療を受けたり、リハビリをするなどの努力が必要です。同じように私たちが霊的な病いから回復されるためにはどのような努力が必要ですかとお聞きする、このような祈りをするようになりました。

またお祈りでは、自分だけがおしゃべりしないで、聞く必要があります。人との会話でも自分だけ一方的に話をすれば、相手は虚しくなります。耳を傾けて聞く必要があります。どのように聞くのでしょうか? 御言葉を読まなければなりません。私はみ言葉を読みながらたくさんの祈りをします。「神様はここでこのようなことを教えておられるのですね。ありがとうございます!」このようにしています。直接神様のみ声が聞こえるでしょうか。そうではありません。「〇〇よ!」。このように神様のみ声が聞こえてくるのではありません。そうではなく、心の中に感動が起きるのです。

私は遠くから妻が目配せしたら何を言おうとしているのかすぐ分かります。私たちは神様とそのような親しい関係を持たなければなりません。み言葉がすぐ思い浮かぶように、また神様が私の心の中にある思いを与えてくださったら、それが神様の声だとすぐ分かるようにならなければなりません。

 

エリヤはカルメル山で偉大な信仰のリバイバルを起こしました。王と民が全てひれ伏し、450人のバアルの預言者たちに勝利したのです。ところがイゼベルという一人の女がエリヤを生かしておかないと言った言葉を聞いて恐れて逃げだしました。そしてレダマの木の下で神様に「もう私の命を取ってください」と言いました。私はこれを読んでこれに病名を付けました。「エリヤのうつ病」です。

その時、神様は彼を元気づけるために色々気を遣って下さいました。神様はとても優しくて、長く忍耐してくださる方です。天使が彼の所に来て、焼いたパンを与え、彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブまでやって来ました。

エリヤがほら穴の中にいると、暴風が来て地震が起き、天から火が降りましたが、そこには主はおられませんでした。その後、静かな細い声がしました。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか?」。短い一言でした。皆さんにはその声が聞こえますか。人を恐れていると、臆病心があると神様の声が聞こえません。神様が大きな御業を成して下さったにもかかわらず、今エリヤを見ると死んだようになっています。悔い改めと大きな信仰のリバイバルを経験した直後に気をつけてください。私たちが心から悔い改めた時、霊的な集会に行ったあと、祈っている時に感じた信仰の高まり、この世の全てに勝利する事ができるように感じるかもしれません。

 

ところが家に帰る途中で見たら、ガソリンの価格がまた上がっています。家に帰ると子供たちがうるさく騒いでいます。そうするとすぐに「神様!死んだほうがましです」と言いたくなります。エリヤのうつ病に陥ってしまいます。それは、神様を知る知識が間違っているからです。自分自身を知る知識が間違っているからです。私たちは毎日、一瞬一瞬信仰を働かせて生きるべきなのです。毎日毎日信仰をもって勝利しなければならないのです。さっき感じた霊的な喜びを継続できるように信仰を働かせ「つぶやきや疑い」(ピリピ2:14)を捨てなければなりません。また昨日感じた喜びを今日感じなくても、主を信頼して平安に歩む必要があります。

 

「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ212)。

 

私たちは毎日「恐れおののいて自分の救の達成に努め」なければなりません。その救いを無くしてはいけないのです。私たちが罪を犯せば、それまで築き上げてきた救いを失ってしまいます。一生懸命、念入りに築き上げた塔が崩れてしまうのです。皆さんはきよめられましたか? すごいですね。30年間清い生活を送って来ました。素晴らしいことです。しかし、一日で崩れます。一晩で地に落ちてしまいます。真面目に生きているうちに、ある時腹が立って夫婦喧嘩をしてしまうと一瞬にしてどん底に落ちます。「ああ、これはいったい何だろう。私は長老なのに、執事なのに、どうしてこうなんだろう! 信仰のために田舎暮らしまでやっているのに!」。これが人生なのです。

私たちは自分自身について明確に認識しなければなりません。皆さんは自分についてどんな理解を持っていますか? 多くの大人は、人に頼らず自分の力で何でもしなければならないと考えています。子供たちはどうでしょうか。子供は走っていて倒れるとすぐに「お母さーん」と叫びます。私たちも神様をこのように信頼していけば罪の世に勝つことができます。

 

ある牧師が書斎で勉強をしている時、ふと窓の外を見ました。窓の向こうは野原ですが、その先にはかなり深い崖がありました。その時一人の男の子が遊んでるうちに崖に向かって走って行きました。その後ろからお母さんが大あわてで、後を追いかけて走っていきました。結局男の子は走っていって、崖下に落ちてしまいました。その時、後を追ってきた母親は、何のためらいもなくそのまま飛び降りていったのです。その子を救うために・・・。

一瞬のその出来事を見ていたこの牧師は、2人を助けるために崖の方へ走りながら思いました。「ああ、神様もこの母親のように人間を愛して、この地上に飛び込んできてくださったのだ。神様が私たちのために人間になられたのだ。神様はそれを悟らせるために、母親に子供を愛する心を与えられたのだ。子供が崖から落ちたらお母さんは自分も身を投げる、そんな心はどこから生まれたのか。神様の御心に似せて創られた心でなければ、そんなことはできない。だから私たちは、日々神様に共にいていただけなければならないのだ」。

 神様ありがとうございます。世界を創られた神様が私たちのために人間になられた、これはとんでもない話です。言葉で説明することもできず、理論にも合わず、架空の話のようです。しかし、神様は私たちにそれを悟らせるために、母親の心の中に子供を愛する心を与えられたのです。子供が崖から落ちたらお母さんは一緒に身を投げる。そんな心はどこから生まれたのでしょうか? 神様のお心に似たものとして創られた心でなければ、どこからそんな心が生まれるでしょうか。ですから私たちは神様を頼りにしながら毎日を生きていくのです。

私たちには、今日一日だけしか与えられていないのですから、一日を喜んで主に捧げ、隣人に神様の恵みを紹介しながら生きるべきです。今日一日を、神様を恐れる心で過ごすのです。

ある人は「神様の戒めを全部守らなくては救われないのですか?」と言います。そうではありません。神様の戒めは私たちが心から喜んで従うものなのです。「神様、守ることによって生きることのできる戒めを与えてくださってありがとうございます」と言わなければならないのです。ビクビクしながら震えているのではなく、神様を畏敬する心と感謝の心で守るのです。詩篇にはこうあります。

「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます」(詩篇139:13,14)。

神様が私たちを創造してくださったその素晴らしいみわざを見て、恐れますと言っています。神様を心から信頼する時に恐れの心が出てきます。

 

私たちは主の恵みを無視して背くのか、恐れと感謝の心で主と共に生きるのか、どちらかしかありません。私たちの思い通りに生きるのか、神様の願い通りに生きるのかです。神様は、私たちが神様の御心に沿って歩むことを願っておられます。そして神様は、私たちを救うために、私たちの心の中に救いの願いを起こさせ、それを実現してくださるのです。これが救いなのです。

「あなたは救われました。聖霊の証印を押されました。誰もあなたを神様の手から奪うことはできません」という人がありますが、それが救いではありません。私たちは神様のみ手から離れることがあるのです。一度救われたら絶対に滅亡しないようにプログラムされたとするなら、予定説が正しくなります。それなら最初から、「あなたは救われ、あなたは滅びだ」と決めておくのがより簡単です。しかしそれでは人間は機械と同じになります。神様が全て決定しておられるというなら、なぜ再臨までこれほど長く待つ必要があるでしょうか? 生きて主を迎える14万4千人が最初から決められているのだとすれば、何もこれほど長く再臨を待つ意味はないことになります。

このように、考え方が一つ違うだけで私たちの生きる方向が変わってしまい、神様を知る知識と品性が違うものになってしまいます。これは本当に悲しむべきことです。一度救われたら滅びることはないという安易な、肉の性質に都合のいい教えが広がっています。

ある集会に行ったら、一人の女性が私に「おや、先生」と舌打ちをしました。「先生!可哀想です」と言いました。その婦人が「先生!なぜ何度も人々に悔い改めなさいと言うのですか? すでに全部許されているのに時間を無駄にしないでください」と言いました。人が一つ間違ったことを受け入れると、どんどん間違った方向へ行ってしまうということを感じました。客観的で合理的な聖書の理解をしようとしないのです。

神様を正しく知る必要があります。神様はどのような方でしょうか? それは聖書の中に詳しく記録されています。学者の意見ではなく、聖書を通して神様を知るようになると、ほんとうの自分の姿を知ることができるようになります。そして、神様を知るようになると、神様がご覧になる目で自分を見ることができるようになります。それによって正しい生き方と信仰と思想が確立されていきます。それは聖書に基づいた生き方なので、思いも言葉も行動も調和がとれて安定したものになっていきます。

問題が起きると落ち込み、何かがうまくいくと浮かれていい気になったりしません。神様を信頼する人の生涯は、落胆して暗くなったり、嬉しくて有頂天になったりしないで、とても落ち着いた平和な生涯です。イエス様は天の父を信頼することと、み言葉を通してすべてのことを知られました。そして人の心に何があるかを知っておられたので人を信頼されませんでした。天の父だけを信頼して聖霊に満たされていたイエス様は、この世におられるときとても落ち着いておられました。十字架にかかられ亡くなる時まで平静に落ち着いておられました。

 

カトリック教会が考える十字架の苦痛と、プロテスタント教会の十字架の苦痛には違いがあります。カトリックの十字架にはほとんどイエス様の像が掲げられています。ところがプロテスタントの十字架にはイエス様の像がありません。カトリックの中には、イエス様の肉体的な苦痛によって救われるという思想があります。そのようなカトリック的思想を持って作られたのが『パッション・オブ・クライスト』という映画です。この映画を見るために米国のクリスチャンたちがバスを貸し切って行きました。それを見ていたら気の弱い女性たちや子どもたちがたくさん気絶して倒れたそうです。私は誰かがDVDをくれたので見てみました。イエス様を何度も何度も殴るシーンがありましたが、私はそのように粗暴で残忍な光景を見たことがありませんでした。ローマ兵がイエス様を鞭で打つ場面で、恐ろしいほどのうめき声があがり、とてもぞっとしましたが、そのようなシーンがとても長く続きました。

この映画では、イエス様の肉体的な苦痛を多く描写していました。私はこれはサタンだと思いました。イエス様の肉体の苦痛をクローズアップしていましたが、聖書にはイエス様の十字架での肉体の苦痛について描写した言葉がひとつもありません。イエス様が十字架に釘づけられて手が痛くて悲鳴を上げたという言葉が一つでもあるでしょうか? イエス様の苦痛は、心をかたくなにして真理を拒否し、滅びなければならない罪人たちを見る精神的な苦痛でした。それがイエス様の心臓を破裂させるほどの十字架の苦しみでした。十字架の肉体の苦痛を強調するのは間違いです。

 

神様は私たちの体の中にエンドルフィンという痛みを和らげる驚異的なホルモンを入れてくださいました。最近はエンドルフィンよりもっと強力なホルモンを発見したという話もあります。かつてクリスチャンの殉教者たちが火刑にされた時、最初の時は苦痛を感じたかもしれませんが、彼らは痛みや火の勢いにまさる特別なパワーをいただいていたはずです。神様は彼らが苦しむのを見て楽しんでおられる方ではありません。ステパノが石で打たれて殉教する時も、痛みや苦しみではなく、天の平安と敵を愛する心しかありませんでした。クリスチャンもそうなれるのです。しかしこの平安や愛は、今から私たちが「曲がった邪悪な時代の中にあって、責められるところのない純真なものとなり、傷のない神の子」となることによって育てていかなければならないものです。「すべてのことをつぶやかず疑わないで」行っていくときに、それは培われていくものです。ピリピ人への手紙の言葉が実行され、身につきますようにお祈りさせていただきます。

 

 

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皆様、ご無沙汰しておりますビックリマーク

だんだん涼しくなってきて秋がやってきますねおねがい

 

 

 

さて本日は聖書が教える「義」の定義についてですが

クリスチャンの皆さまは

「義」や「不義」という単語を頻繁に耳にしていると思いますお願い

 

 

義と聞くとよく「善」「良い行い」「正しい事」

反対に不義と聞くと「罪」「悪」「悪い行い」

だと思い浮かべがちですあせる

 

しかし聖書が言う義はそのような事だけではありません。

 

 

クリスチャンとは、

正しい事をしたから救われる存在ではないのです!!

 

 

聖書が教える「義」を正しく理解できる事によって

喜び溢れる信仰生活となれるでしょうラブラブ

 

 

 

 

 

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もし私達が母親に向かって、どうして私を愛してくださるのですかと尋ねたら、そのような質問はおかしいと言わなければなりません。また、私を命をかけるほど愛しているかどうか証明してください、などと言ったらそのような言葉は間違っています。母親の愛には理由などありません。これは人間社会の根本的な基盤であって、この愛に理由をつけたり、証明してほしいなどと言うのはまったくお門違いなことです。愛することには論理などないのです。

子供が水に溺れていたなら、何も考えずに水の中に飛び込んでいく母の愛を私達はどのように証明できるでしょうか?

 

ところで、イエス様は、律法の呪いから私達を救うために、ご自身が代わって呪いを受けられました。イエス様が呪いを受けられたおかげで、私達は律法の呪いから救われました。

もともと呪いと言うのは、罪の告白も悔い改めもないまま、その人の恩恵期間が終わった時に来るものです。これが呪いです。

ところがその時、律法をお造りになった主ご自身が、その呪いを私が代わりに受けるから、悔い改めない人たちに赦しのチャンスを与えてほしい、と言われたのです。

その次の段階で私達が理解しなければならないことがあります。それは、どのようにしたら義なる者になるかと言うことです。私達が神様の前に義なる者になる道はどのようなものでしょうか?

最初にマタイによる福音書6章31節から34節です。

「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」。

 

私達は何を着るか何を食べるかどこに住むかと言うことに焦点を合わせなくても生きることができるのです。ただ天に焦点を合わせて生きるなら他のものは自然についてくるのです。といっても、何の苦痛も困難もなく自動的についてくるのではありません。

この世には苦しみがあります。病気にもかかります。信仰のある人も病気になることがあり、会社が倒産したり、交通事故にあったりすることがあります。しかし、この世には問題や苦しみ悲しみがあっても乗り越えることが出来ます。そのようなものが一番重要な課題ではありません。

イエス様が私達に教えられたことは、この世の問題のためにあなたの時間、心を浪費して悩む必要はないということです。あなたがたが本当に時間と心を費やすべきところは他にあると言われたのです。

まず、神の国と神の義とを求めるなら、他のことは神様が責任を持って解決してくださると言う意味です。

人生にはたくさんの苦しみや困難があります。そのような経験が全然ないとしたら、私達は罪のない天使にならなければなりません。この世で生きている限り、試練を通らなければなりません。裕福な人は裕福なりにストレスを感じ、貧しい人は貧しさのゆえにストレスを感じます。しかし、どんな問題も必ず乗り越えることができるのです。

この世では皆同じように苦難を経験しますが、イエス様は、神の義を求めるなら永遠の御国を得ることができると教えて下さっています。

ですから、私達にとって最も重要な問題は私たちがどのようにすれば義なる者になれるかという事です。

義とは何でしょうか? 戒めに従い正しい行いをすることです。罪を犯している人に義はありません。義なる行為をしなければ義人ではありません。

ヨハネ第一の手紙3章4節にこのように書いてあります。

「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」。

またヨハネ第一の手紙5章17節にこのように書いてあります。

「不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある」。

死に至る罪と死に至ることのない罪は何でしょうか? 死に至る罪は悔い改めない罪です。その罪を抱き続け良心が頑なになった状態です。死に至らない罪は失敗しても、悔い改めた罪です。悔い改めるならすべての罪は赦されます。

イザヤ書51章7節に書いてあります。

「義を知る者よ、心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け。人のそしりを恐れてはならない、彼らのののしりに驚いてはならない」。

義は主の戒めを守ることです。罪は戒めを守らないことです。それでは、私達はどうしたら義なる者になれるのでしょうか?

申命記6章25節です。

「もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう」。

聖書は神様の戒めと律法を心に抱いてそれに従って生きることが義であり、義人だと言います。

それではガラテヤ人への手紙を書いたパウロが一番言いたかったことは何でしょうか? 戒めをどのように守るかと言うことが焦点なのです。戒めを守るべきか、守らなくてもよいかと言うことが焦点ではなく、戒めは必ず守らなければならないが、どのように守るか、どのように守ることが私達を義なる者にするのかと言うことが中心点です。

ローマ人への手紙3章20節です。

「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」。

この論理通りだと私達は絶望です。

ここでパウロが言ったのは、その当時の教え方の一つの方法でした。否定的な反対の意見を先に言うのです。それから結論を出します。義とは戒めと律法を守ることです。しかし、律法と戒めを守れる人は誰一人いないと言うのです。

では私達はどうすればいいのでしょうか?

エレミヤ書23章6節です。

「その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」。

彼らが義人になり救われたのは、彼らが唱えられた通りなのです。「主はわれわれの正義」これが私達クリスチャンが救われ、義なる者になれる道です。

エレミヤ書33章16節です。

「その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」。

この聖句は何を意味するのでしょうか。私達がどのようにして義なる者になるのか、それは「主はわれわれの正義」となること、さらに、この救いをどのように維持していくかというと、それも「主はわれわれの正義」ということなのです。

これは救われた人と救われた教会の証になります。律法の行為で救われる者は誰もいません。私達には律法を守ることは不可能だからです。しかし、私達はイエスキリストを信じる主の義によって、そうなれるのです。

これは、私達は律法を守らなければ救われませんが、それを出来るようにして下さるのは自分ではなく100%主イエス・キリストの義だと言う意味です。

イエス様がこの義を成し遂げられるのはご自身の中だけではなく、私達の中で成し遂げてくださるのだと聖書は教えています。

それなら、どのようにすれば私達は神様の義を得られるのでしょうか?

ルカによる福音書18章9節から14節です。

「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

このたとえ話は戒めを守らなくても良いと言う話ではありません。これは私達がどのようにしたら戒めを守れるようになるかということを説明しているのです。この話は、私達の神様に対する義務から解放させてくれると言うものではありません。むしろ、主が私の中で義を成し遂げる働きを始めてくださるその動機を教えているものです。

この話を初めて読んだときは、ただ取税人がパリサイ人より謙虚であるから義とされたのだと思っていました。しかし、何回も繰り返し読むと違いました。これは私達が義なる者になる唯一の道であることを発見しました。これだけが神様の前で義なる者になるただ一つの道なのです。

このたとえ話は私達がどのようにすれば義を得られ、どのようにすれば義を得られないかを説明してくれます。私達の中にもパリサイ人がたくさんいます。クリスチャンの中の多くの人の考え方がパリサイ的なのです。このたとえは私達の話です。

自分の善意と努力で義を達成しようとする人が多いのです。自分の義を信頼している人がたくさんいます。

皆さんはこのように思っているかも知れません。私達はイエス様の血の力によって、信仰によってのみ義を得る事ができると思っているかも知れません。

私達がもし、毎朝聖書を読み、お祈りをし、善行も行い、怒りをよく抑えることができ、謙虚であり伝道も頑張っているなら心は平安でしょう。そしてお祈りしたいと思い、主の前に少し堂々と出来るような気がします。自分は神様の義を得られると思います。

しかし、失敗して転んでしまいました。恥ずかしい誤りを犯しました。その時私達は、神様に合わせる顔がなくて神様の前に行けなくなります。いつまでそうするでしょうか? 自分が以前より聖書をよく読み、生活が改まったら神様の前に行けると思うのではないでしょうか。

もちろん私たちはお祈りし、聖書を研究し、毎朝神様に心を捧げなければなりません。これは私達が必ずしなければならない務めです。しかし、これが私達の義ではありません。ところが、私達はこれが自分の義だと思います。それで、これを少し手を抜いたら神様の前に立つ事ができないと思ってしまいやすいのです。

そのような時に何か問題が起きたら、迷ってしまいます。お祈りできるかどうか、面目がないからお祈りできないと思うのです。それがパリサイ人です。

私達が神様の前にどのようにしたら義なる者になれるのでしょうか? そのことを説明されたのがパリサイ人と取税人のお祈りです。

私達が罪に勝利したりすると自信が湧いてきます。しかし、いつもよりたくさん罪を犯したり、大きな罪を犯したり失敗したりしたら、私達は神様の前に出ることが出来ないと思ってしまいます。そして、自分が納得のいく善行をして、心が納得するまで神様の前に行くことを保留します。神様の義を得る要求を保留します。面目がないからです。それで祈ることを止めます。しかし、そのような事をするとたちまちサタンの餌食になります。私達の心に絶望感、落胆、不信や疑惑が入って来るのです。

それは神様の義と神様の義を受ける方法を、人間的な方法で理解しているからです。それがパリサイ人なのです。パリサイ人も義を愛し、戒めを愛している人でした。しかし、戒めを守る動機と方法が全く違っていました。これが律法主義です。

義なる行為をして、自分の判断で義なる者になったと感じないと神様の前に行けないと思うのです。

神様はすぐに私達を義としてくださる方です。私達の罪をなくしてくださる方です。このことを私達はしっかりと理解していなければなりません。私達が善を行うことで義人になるのではないということを、心に深くとどめなければなりません。

私たちは戒めへの屈服と犠牲と献身を強調します。しかし、それは神様が私を義なる者にしてくださるので可能なのです。イエス様が義で、そのイエス様が私の中に働きかけて下さるから可能なのです。

屈服しない者はその中にイエス様おられないと言う意味です。

ローマ人への手紙3章24節です。

「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。

私達が義となるために何をしましたか? 私達に何の功績があり、何の資格があって義となったのでしょうか? 私達は価なしに義とされたのです。義は価なくプレゼントとして受けました。理由はありません。

私達が善を行っても、それが義を生み出すのではありません。「主よ私は罪人です。私をお赦し下さい」と言い、神様の慈悲を願うだけの者です。私達には神様の義を受ける資格は全くありません。私達が一生善を行い、屈服したとしても、それは私達に1%の義も与えてくれないのです。このことを知ることが信仰の出発点です。これを理解してから私は落胆しません。

義を得る道は作られているのになぜ落胆するのでしょうか? 律法以外の他の義があると聖書は教えています。そのため私達は落胆する理由はありません。

何か失敗した後、失望します。しかし、それが神様に行く道を妨げないのです。このことが、しっかりと基礎として敷かれたときから義が始まります。

義を価なく受けて下さい。私達が何か義なる行為をしたから値を払うことが出来ましたか? 違いますね?

神様が私達を哀れに思い義として下さるのです。このことを忘れたら私達はパリサイ人になります。人を批判するようになります。私達がどのような立場や信仰状態にいても、義なる者になる基本は自分を罪人と認め、神様に慈悲を切に求めることだけです。

この心が、イエス様を信じた日から死ぬ時まで私達の心の中にあるべきです。

なぜならこれが義だからです。これを理解するなら、福音に対する理解が劇的に改革されるのです。

この心がないまま義なる者になろうとしたり、何かを行うことによって義なる者になろうとしていく過程がパリサイ人です。

私たちが義の服を着るためには、自分の着ている自己義認の服を脱がなければなりません。自分が成し遂げた何かを脱いでください。自分は善を行い、正しく生きてきたのでここに来ている、あのような人達とは違うという、その考え、それを脱いでください。自分は他の人より聖書をたくさん研究していると思う、その考えを脱ぎ捨ててください。全部脱いで、あの取税人のような心で主の前に立ってください。

主が義の服を着せて下さらない限り、私達は義なる者にはなれません。私に憐れみを施してくださるのは神様しかおられません。自分の失敗を嘆いて、みじめに思って、自分をサタンに渡さないでください。

私達に義を与えてくださることは、神様の選択であり憐れみの故です。義を成し遂げるために何をしようかと考えると、義を成し遂げられなかったとき自分を責めるようになります。私達はそのようなことを何度も繰り返してきました。それは出発が間違っているからです。

取税人の心が私達の心に深く理解され刻まれるとき、義が何かわかるようになります。そうすると私達の心に神様の義が芽生えます。それからこの義を感謝するようになります。いつも自分を義として下さっている神様に感謝しながら生きるようになるのです。

義を信じるなら約束が成し遂げられます。しかしその前に取税人の祈りを祈らなければなりません。この祈りがないなら私達は自己欺瞞に陥っているのです。

神様が私達を受け入れて下さるのは、私達が善人で立派だからではなく、私達を生まれ変わらせ、私達がどのような人間になるかを神様がご存知なので受け入れて下さるのです。

私達が子供を愛する理由は、子供が将来大統領になるからですか? 立派な音楽家になるからですか? ただ無条件に愛するのです。その子がこれからどのように成長するかと希望をもって愛するのです。神様が私達に対して持っておられる愛も同じようなものです。

ヨハネ第一の手紙3章1節にこのように書いてあります。

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである」。

 

また、ローマ人への手紙8章1節から4節にこのように書いてあります。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」。

私達の中で律法の要求を成し遂げるようにして下さるのです。それが神様の義です。神様が成し遂げてくださることです。この義は、自分の義を捨てて取税人になるとき成し遂げられます。

自分が罪人であることを認め、悔いと共に神様に赦しを求めるのです。そのとき私達は、神様からのプレゼントとして義を受けることができるのです。あの取税人に言われた言葉を自分のものとして受け止めることができるのです。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人」であった。

私達は義人になろうとして、いろいろなことを実行します。自分の行為によって義を成し遂げようとする人は、人を非難しやすくなります。私達が義なる者として生きられるのは、私達を義として下さったイエス様の義が私を支えてくださっているからです。自分に力があるから義なる者として生きられるのではありません。

今日から私達はこのように考えましょう。

「主よ私はこれから『神様が私の義だ』と言います」。これが安全で私達の救いです。このように心から言われるようになることをお祈りします。

 

 

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この説教内容は「第三のエリヤ」についてですが

エリヤは旧約聖書に出てくる預言者ですね。

 

神様の御言葉を伝えた事によって

人々に嫌われて、誤解され、迫害されたような方でした。

 

今の終わりの時代に私達はエリヤのように

神様の御言葉を伝えなくてはならないのですが

そのような使命を遂行する時に最も大事な事は

何でしょうか?

 

 

使命を遂行する時に持つべき心構えについても

語っていますドキドキ

 

 

福音について正しく知り、行い、伝えていく事によって

最後の時代のリバイバルは起きますビックリマーク

 

 

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マラキ4章5節6節にある、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」という預言は部分的に、マタイ17章と11章に記録されているように、バプテスマのヨハネに成就されました。

 

イエス様がこの地に来られ、変貌の山で栄光の姿に変えられて、またモーセとエリヤの隣で主と共に栄光に輝く姿を見た時、ペテロとヨハネとヤコブは出て行ってどれほど話したり、 少し騒ぎたくてどんなに口がむずむずしたでしょう。

これはイエス様がメシヤであるという決定的な証拠でした。メシヤが来る前にエリヤを先に遣わすという旧約聖書の最後の書、最後の章、最後の節の預言が完全に成就したことを両目で見たのに、なぜイエス様は、その話を口外するなと言われたのでしょうか。それは真理を私達の心の中で確信させて真理を理解するようになるために、神様は奇跡を用いられないからです。

目に見える超自然的な現象を用いられないのです。神様が私達の心の中に静かに聖霊によって働きかけ、語られて、私達の心がみ言葉を通して、理解し、確信し、聖霊が働きかけて心が熱くなり、神様を信じるようになることが、神様の救いの方法なのです。

ペテロとヨハネとヤコブはその驚くべき光景を見てびっくりしました。それで、彼らの信仰がもっと強くなり、確実となり、二度と倒れないようになると思うかもしれません。しかし、それは感情、目に見える印象であり、それが過ぎていくとまた同じように倒れ、裏切り、争い合うのです。後にイエス様がゲッセマネの園で捕まる時、彼らは自分の生命を生かすために逃げ出した事実を私達は知っています。ですから、私達は目に見えるものによって救われないことを、このみ言葉から確認することができます。

ところで、ここでイエス様は、「エリヤはすでにきたが、彼を責めて、迫害して殺した」と言いわれました。それで彼らは、メシヤが来る前に神様が遣わされるエリヤとは、バプテスマのヨハネのことだったという事実を悟ったと聖書は述べています。

しかしこのバプテスマのヨハネは、部分的な預言の成就です。マラキ4章5節、6節にある、主の大いなる恐るべき日が来る前に、神様が本当の預言者エリヤをつかわし、子供たちの心を父に向けさせ、父の心を子に向けさせてくださるのです。つまり、神様とご自身の民の間に、真の和解の経験、 真実の救いの経験が起き、 真の悔い改めの経験へと導く、そのようなリバイバルと改革の使命を伝えるエリヤを遣わすというこの預言は、最後の私達の時代に成就されなければならないのです。

ヨエル書にある預言についてペテロは説教しました。使徒行伝の自分の時代の今、多くの老若男女が夢を見、幻を見、預言する、そのような聖霊の特別な働きを説明しました。そのことも、その時代に部分的に適用されました。 いつでしょうか? 五旬節の日に、聖霊を受けた時です。

その事は、これからの刈り入れの時、世の終わり、まさに私達が生きる時代に、必ずもう一度成就されなければならない預言なのです。

このような旧約聖書の預言は、イエス様の初臨の時にすべて成就したように思いますが、本当に、実際に成就すべき、その完全な成就は、私達の生きている世の終わりにあるのです。

旧約聖書はイエス様の初臨、再臨、三度目の来臨について言及しています。

それで聖書66冊の全ての預言とみ言葉は、全体として一つに合わされて、一つの光、一つの真理として、全てつなぎ合わされて、 それが一つとなって私達が住むこの時代、イエス様が来られる直前に、全て成就した後にイエス様がいらっしゃるのです。

すでに申し上げましたが、真理は、光は、もともと神様が聖徒達に与えられた光は、最後に完全に全て回復されます。しかし、完全に回復されたその真理が、この地上に6千年間生きてきた、全ての人類、アダム以来の全ての人々を審判して救う標準、基準とはなりません。

なぜなら、光は漸進的に回復してきたので、最後に完全に回復された真理の光をもってすべての人々の審判の基準とするなら、不公平だからです。ある人々は知らなかったので、ある時代には知ることができなかったので、ですから神様は、各時代ごとにその人々の良心を目覚めさせ彼らを悟らせて、また、彼らの心の中にあるものを明らかにする現代の真理の光を与えられました。各時代に現代の真理がありました。しかし最後の時代に、なぜ、真理が全て回復される必要があるのでしょうか。

もし時代ごとに与えられた光によって、彼らの心が裁かれ、彼らの信じる信仰の動機が明らかにされて、主が審判して救われるとしたら、そのような基準で救われるとすれば、何のために、最後まで、なぜ真理が全て回復されるまで、待たれて、この世を終わらせられるのでしょうか?

その理由がここにあります。 その理由は、神様の民、教会が完全に回復される必要があるからです。皆さん、最後の時代の教会のことを聖書ではヨハネの黙示録に出てくる 144,000と表現します。また、彼らは12部族からなると表現します。 それは12という数字は、12部族というのは完成された神様の国、国家の事を言うからです。 神様はイスラエルの民に律法を与えて、

私の言葉と私の契約を守るなら、あなたがたは私のために、聖なる国民と祭司の国になると言われました。わたしはあなたの神となり、あなたがたは私の民になると言われました。

それで神様は常にこの地球全体を1つの国家として扱っておられます。アダムとエバをこの全地球の代表として扱っておられます。エバが先に罪を犯しましたが、神様はアダムを指して、その家、その国の代表であるアダムが罪を犯したとみなされました。ですから、神様はこの世の人々を指導なさる時、それを象徴的に、国、王国と見なされるのです。その王国は完成します。つまりその王国は、様々な性格や個性を持つ人々によって構成され、全てまとめられ、合わされて救われるのが国です。その国は同じ個性の人々だけで占められていません。神様は全ての人を個人的に、平等に扱われます。主はその民によって、王国を建設されるのです。

ところで、その王国には光がなければなりません。ですから暗闇から光の子らの国へ招かれたとコロサイ書では説明されています。

 皆さん、今申し上げているのは、聖書全体ではなく、序論をお伝えしています。

このようにして主は一つの王国を起こそうとしておられますが、その王国がシオンの山に小羊と共に立っていると説明しています。それは、王国を、12部族として表しています。この12部族として表された理由があります。

12部族は、神様の光を持って、神様を正しく知る人々です。そして、神様が、小羊が、どこに導こうともついていく人々です。一つの民、聖書は常に、神様が私の民、一つの民、私の一つの民を準備すると述べています。

宇宙は一つです。その中で、地球だけが反逆し離れていきました。サタンはこの地球を自分の永遠の本部、永遠の陣地としています。この大争闘において、神様はこの地球を取り戻されるのです。この地球を神様と、全宇宙と、悪魔に対して、あなたに属しているこの世界は、本来神様の民であり、神様の王国であることを証明されなければならないのです。

悪魔は、もともと慈しみと正義は両立できないと訴えていました。もし神様が罪を犯した人間を許すなら、正義に反すると訴えています。許しと正義は両立できないと主張しています。それはある意味で、合理的な話です。ある人に許しを与えるために、基準や法そのものを破棄するなら許しが可能です。そうではないでしょうか? しかし、法を犯すなら、違反者は必ず刑罰を受けなければなりません。

罪を犯して神様に反逆した者は、必ず死ぬべきです。そうでなければ法の正義は守られません。法を定めた目的が無くなります。それゆえ、神様は罪を犯した人間を生かし、主の宇宙を統治する秩序の原則である法も生かすために、十字架を立てられたのです。十字架の中には、私達の罪の代価を支払う恵みと憐れみがあり、同時に、この法は、永遠に変わることがないものであるため、罪の代価を要求する正義を満たすものであったのです。ですから、十字架は、法を遵守し、主の憐みをもたらしました。

ところで、この法と憐れみがすでに、一つとなったのですが、今、このような問題が起きました。

サタンは言います。「われわれも罪を犯して、人間も罪を犯したのに、我々は永遠に滅ぼそうと計画し、人間も同じように罪を犯し、反逆し、戒めを破ったのに、彼らは許して永遠に生きるものとして救うのですか? あんまりです、不公平です」と言うのです。

その時、神様がおっしゃるのは、

「お前や悪天使達は天から追い出される前、天での大争闘が起きた時、私の王座の前で全ての光を知り、私の栄光の前で私の愛と恵みと全ての品性を知りながら、お前たちの傲慢のゆえに罪を選んで、反逆し、最後まで悔い改めないことによって滅びるのだ。しかし人間達は光を知らなかったのだ」、と言われます。人間は、サタン達が知っていたほど、十分な光を受けていたわけではありませんでした。ですから光が必要です。

そこで、神様が決定されたのはアダムとエバの罪の後も、彼らの子孫が生まれ続けるよう、主が許されました。何を根拠にでしょうか? イエス様が十字架上で亡くなられることを根拠として、人類が生まれ続けることを許されました。

それでは、私達がこの地上に生まれる意味、目的は何でしょうか? 私達が神様のみ前に出る時、私達がサタンと同じでないということです。それが証明されなければなりません。私達はサタンと違って、許しを受けて、永遠に生きることができる存在であることが、明らかにされなければなりません。そのことが証明され、示されなければなりません。それが証人達です。私達は、私達の救いを通して、永遠に生きることの証人となるべきです。その働きを、主が聖霊によって、私たちの内になされるのです。私たちの努力ではなく、主の御力によってそれを成し遂げて下さいます。

次にまた、神様の律法と神様が正しいことを、宇宙の前に証明する最後の証人たちが必要なのです。そのような人々が表れるなら、一つの民が準備されるなら、ついにこの罪の歴史が終わり、この世に永遠の新しい天地が到来するのです。

今簡単に説明しましたが、皆さん、このことはじっくり噛みしめて熟考すべき、とても重要な聖書の主題です。聖霊の業です。

ですから、神様は、終わりの時に、主の大いなる恐るべき日の前に、誰を遣わすと言われましたか? エリヤを遣わすとあります。

皆さん、エリヤはなぜ来ましたか? エリヤがカルメル山に立った時、3年半地上に、荒れ果てた教会に雨が降りませんでした。雨が降らないというのは、何を象徴していますか? 堕落し反逆した教会、偽福音を持って、間違って礼拝する教会、背信し、悪となった教会を象徴しています。主の審判を象徴していました。

今の時代も同じです。昔もその背教した教会に対して、エリヤは立ち、あなた方は神様に誤って仕えていると訴えました。その時代、彼らは、彼らをエジプトから導き出した主が、バアルだと思っていました。あまりにも長い間、少しずつイゼベルのような間違った教えが教会に入りこんできました。数百年が過ぎると、次第に彼らは主なる神様の業をすべて忘れてしまい、バアルが彼らの主であるかのように誤解し、自分たちの名前にバアルの名前を付け、ゼルバアル、何々バアルと名前を変え始めました。

そのような中で、エリヤは一つの民を準備しました。悔い改めを呼びかけ、崩れた祭壇を築き直しました。主が定められた真の救いを表す、羊を燔祭とする原則を回復し、そこに羊をささげる時、天から火が降ってきて、その羊を焼き尽くして、神様を信じる真の信仰と、真の福音と真理が何であるか証明しました。

これがエリヤでした。エリヤは真のリバイバルと改革をもたらす主の僕です。ところが、この僕も、情緒不安となり、落胆し逃げ出しました。逃げて、死ぬことを願いました。私たちもそうなのです。キリスト者も驚くべき霊的な経験をした後も倒れ、落胆に沈むことがあるのです。

しかし、主は彼を再びホレブ山で呼びかけ、リバイバルさせ、その後どのようにされたでしょうか。再びイスラエルに遣わして、預言者の学校を始めるようにされました。真のリバイバルと改革を始めました。この同じ働きが、すべてではありませんが、部分的に、イエス様が言われたように、バプテスマのヨハネの働きに成就しました。

当時の教会も同じように背教し、偶像崇拝をし、イエス様を拒否し、真の福音と真の礼拝を拒否していました。しかし、バプテスマのヨハネは、彼らに悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結びなさいと叫びました。

私たちが実を結ぶ前に、種が芽生えるために、私達の心を空にする必要があります。真の悔い改めです。悔い改めには実が伴わなければなりません。悔い改めは、ただ私たちが、すみません、憐れんでくださいと言う感情ではなく、私がその罪から翻って再びその罪を犯さないことです。罪を捨てることです 罪を諦めることです。そして罪が捨てられた所に聖霊の実が代わりに実を結ぶべきです。

ヨハネは、聖霊によって、「悔い改めにふさわしい実を結ぶように」と告げました。取税人には、「これ以上お金を着服するな」と言いました。軍人にはこれ以上強奪するなと言いました。教会の指導者達が人気を取り戻そうとあら探しをしようとしていると、「まむしの子らよ!」と率直に忠告しました。

そのために、教会から憎まれて死にました。しかし、彼は改革者であり、リバイバリストでした。これが、エリヤの働きでしたが、エリヤがやって来たのを教会は知りませんでした。イエス様は彼がエリヤであったと言われ、

「耳のある者は、聞くがよい」と言われました。

 

真理というのは、ある奇跡を見て、イエス様が変貌の山で栄光の姿に変えられ、エリヤとモーセが下りてきたこと、それらを証拠とするのではありません。そのような超自然的な目に見える奇跡は、私達を作り変えたり、悔い改めさせたり、また、確信を与えることはできません。それらはしばらく私の心に印象を与えるに過ぎません。

では、私達は現在何を見ているでしょうか。私達も今、エリヤのように、世の堕落した教会と、間違った福音や教えの為に闇の中にいる民に、心から悔い改め、神様に対して正しい礼拝を捧げなさいとの使命を伝えているエリヤ達が誰であるかを知る必要があります。

 

ヨエル書2章31節を読んでみましょう。「主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る」。

ここを見ますと「主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る」、そのようなしるしがあります。

 3章15節です。「日も月も暗くなり、星もその光を失う」。

その前の14節。「群衆また群衆は、さばきの谷におる。主の日がさばきの谷に近いからである」。

そしてマラキ4章5節、6節には、主の大いなる恐るべき日が来る前に神様はエリヤを遣わす、と言われました。

それで、ご自身の民をもう一度導き出す、立ち返らせるのですが、それは義の業に立ち返らせるということです。ダニエル書12章を見てみますと、義に立ち返るといことは、義となること、義を経験するということです。義とは正しいことを行うことです。義とは、イエス様が私達の罪を赦し、清めて下さるだけでありません。神様が義と認めてくださる時、義と認められる神様ご自身も義となられるのです。

全宇宙が見る時、主がその人を許し、永遠に宇宙で生きるようにされるその判断が正しく義であると承認するのです。ですからローマ書3章(26節)には、主が私たちを義とし、また義とされる主ご自身も義となられると説明されています。

もし私達が、性格があまり良くない女性を、ただ結婚させようとして、彼女のことをほめて、器量が良くて、品性も良く、信仰も最高であると言って結婚させたとしても、後で、その女性の誤った品性が明らかになったら、仲人さんの義は、義ではなく、偽りであったということになります。

ですから、神様が私達を救うという決定が、その決定が永遠に義であると判断されなければなりません。ですから、神様は、まず民の心を耕し、ひっくり返し、悔い改めさせ、義にふさわしい実を結んで、本当に神様にお会いし、主と顔を合わせて会う民を準備するために、エリヤを送られたのです。

 

ところで、エリヤが来る時、主の大いなる恐るべき日とは何の日でしょうか。審判の日であることが、ヨエル書からわかります。裁きの日です。

イエス様が来られた時にも、その初臨を通して、一度裁かれました。その時点で教会は、メシヤであるイエス様を拒絶した人々は、恵みの時が終わり、裁きを受けたのです。彼らが受けてきた光を、どのように扱うか、その態度に応じて彼らの運命が決定されたのです。彼らの恵みの時が終わり、裁かれました。

各時代において、すべての時代ごとに、すべての各個人は、自分が理解し、受けてきた光に従って、審判を受けるのです。したがって、この裁きの日が来る前に、神様はエリヤを遣わされるのですが、この審判については、イエス様の初臨の時よりも、再臨前の最後の時代において、たくさん言及されているのです。

ですからマラキ書4章5節、6節の預言は、私たちが住んでいる最後の時代、イエス様の再臨の直前に住んでいるこの時代に与えられたみ言葉であることを、私達は知ることができるのです。

また、マタイ24章を見ますと、大きな艱難の直後に何がありますか? 太陽は暗くなり、月は血のように変わり、星は落ちとあります。これも同じ内容の話です。ですから、この預言、エリヤが先に来るという預言は、イエス様の再臨直前の出来事を、私達が良く知ることができるということです。

興味深いのは、エリヤの時代に3年半の間、雨が降りませんでした。そうでしたね? 3年半の間、雨が降らなかった後で、エリヤが現れました。イエス様は3年半の間、公生涯を送られました。そのイエス様が、3年半の公生涯に入られる前に、エリヤが来ました。昔エリヤも3年半の間、雨が降らなかった後で、カルメル山の上に立ちました。3年半前に、エリヤが宮廷で3年半の間雨が降らないと警告しました。そうでしたね? 

ですからイエス様が3年半の公生涯を始められる直前に、バプテスマのヨハネが来ました。エリヤが来ました。そして警告しましたが、彼らは彼を見分けることができませんでした。

皆さんご存知でしょうか。聖書の預言の中で、中世暗黒時代のローマ教皇による迫害時代がどのくらいの期間だと預言されていたでしょうか。数年でしょうか? 3年半、42ヶ月 1260日でした。それを預言の解釈として1260年と理解しました。そうですね、1260日は、3年半です。苦難の3年半、1260年が始まる時、これは主の御心でないと叫ぶ、荒野の教会の改革者達がいました。

終わった後もありました。3年半の間の驚くばかりの背教がありました。それは、538年にローマ教皇権が完全に確立された時から、1798年にフランスのベルティエ将軍によって、剣にかかり、ピウス6世が捕らえられ、フランスの牢獄で死んだ1798年から、終わりの時が始まりました。その後誰が来るのですか? その後に、エリヤの使命が、この世に伝えられるのです。裁きの日を警告し、神様に会う準備をするように声を上げるのです。

少し興味深いことを見てみましょう。ヨハネ黙示録13章13節にこうあります。

「また、大いなるしるしを行って、人々の前で火を天から地に降らせることさえした」。

聖書の中に火が天から地に降ってきた歴史が書かれています。

それは、まさにエリヤが経験したカルメル山での対決です。そうですね。ですから、最後の時代、黙示録13章の、まさに最後の時代の真の神様の民と、獣の勢力が戦うことになる時のことです。真の神様の民と、背教した人々との間で大きな戦いがある時、その時に起きることが、エリヤで象徴されているのです。

天から火が降ってくるのです。これは何を意味しますか? 最後の時に、エリヤのミッション、エリヤの使命が、成し遂げられることを説明しているのです。エリヤの働きです。

ルカ福音書で、天使ガブリエルは、この子供、バプテスマのヨハネはエリヤの霊と力とを持って、エリヤの力と精神を持って叫ぶと説明しました。(ルカ1:17)

しかし、ヨハネは、表面上そのようなエリヤでもなく、エリヤのような権威もなく、素晴らしい外見もありませんでした。彼は拒絶され、非難され、問題を起こした人であり、そのような人でした。ただ、バプテスマのヨハネは、天国が近づいたと言いました。天国、恵みの王国が近づいてきたと説明したのです。

洪水前にノアの悔い改めの使命がありました。イエス様の初臨の時、バプテスマのヨハネの悔い改めの使命がありました。イエス様の再臨の前に、第三のエリヤの警告があるのです。

次に、テシベ人エリヤの使命を見てみましょう。テシベ人エリヤのオリジナルのメッセージは、

第一に、イスラエルの民が背教し、神様の戒めを捨てたので、悔い改めなさいという訴えでした。

第二に、バアル崇拝を非難しました。

第三に、聖所制度の奉仕を回復しました。祭壇を再び築いて、回復しました。 真の救いの道を回復しました。

今日の教会も、人がどのようにして救われるのか、その道を曲解させ、誤解させてきました。イエス様がこの地に初臨された時、ユダヤ教会の中では、どうすれば救いを受けられるのか、真の救いの福音がねじ曲げられていました。今も同じです。 真の福音のメッセージがゆがめられています。

ヨハネ黙示録の14章6節~12節に、三天使が飛びまわりながら、この世界に向けられた最後の警告と恵みと憐みの使命を伝える場面が出てきます。

そこで、第一の天使が述べているのは、 永遠の福音です。永遠の福音、ところで、福音とは何でしょうか? 神様が人間をどのように救われるか、その方法を説明したのが福音です。そうですね。その福音が間違うならば、人々は間違った平安を持って暮らして、最後に滅びます。

「あぁ主よ、私をご存知ないでしょうか。私は神様のために、病気を直したりしたのですが」。「私はお前を全く知らない。出ていきなさい」。

この人は、福音を知りませんでした。 昔のユダヤ人も福音を知りませんでした。エリヤの時代にも、教会が神様をどのように礼拝し、どのように救いを受けるのか、その福音を誤解して、間違った教えを伝えていたので、暗くなっていました。背信の時代でした。 その時必要とされたのがエリヤでした。

イエス様の初臨の時も、福音が間違って教えられていたので、本当の悔い改めの実を結べという、真の悔い改めと、真の義の道のメッセージを伝えたのが、エリヤでした。それなら、主の大いなる恐るべき日が来る直前になされるべきエリヤは誰であり、どのような使命でしょうか?

真の義の道と真の福音を正しく解釈して教えることがエリヤの使命でした。

二番目のエリヤである、バプテスマのヨハネも同じ働きでした。ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言って救いの岩であるイエス様を紹介しました。 イエス様が真の聖所制度の小羊だからです。

彼らは、それまで羊を捕まえて、燔祭としていました。父も祖父も曾祖父も、聖所で羊をささげて救われたので、自分もただ羊を燔祭とすれば良いと言うことはできなくなりました。なぜなら犠牲の本体であるイエス様が来られたからです。

しかし、新しい光は、過去の光を無視しません。新しい光は、過去の光をより明るく照らしてくれるものです。英語でも、less than lightとか、better light とか Brighter light、more lightと言います。

ですから、小さな光と大きな光、大きな光が来るとき、新しい現代のメッセージが来るとき、過去の小さな光を、拒否したり、無視したりしますか? そうではありません。小さな光は、小さくても、より大きな光に導くのです。

小さな光を通してより大きな光が理解できるのです。ですから、聖所制度は、

やがて来られる犠牲の小羊イエス様、メシヤを受け入れる準備をさせる制度でした。

小羊をメシヤの象徴と信じて救いを受けました。そして、真の小羊なるイエス様が来られた時、彼らが謙遜に真理を探し求め、主に敬虔に心を開いて、悔い改めるなら、つまりエリヤの時のように、イエス様が来られるその道を事前に整える、バプテスマのヨハネのメッセージを聞いて悔い改めるなら、イエス様をメシヤとして受け入れることができたのです。その通りですね?

ですから最後の時代にも、エリヤの真の義のメッセージ、真の悔い改めと真の福音が伝えられますが、それを聞かなければ最後にどうなりますか? 永遠の福音を拒否するときに、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた」と言われるのです。

教会が福音を誤解させて安易な福音に、犠牲の伴わない福音、自分を屈服させない安易な福音に陥った時、ただ信じさえすればいいという信仰に陥った時、その教会は、バビロンとなるのです。

そのように、福音を間違って信じるので、あらゆる誤謬、偽りの教えが教会に入り込んできて、憎むべき汚れた鳥と霊の巣窟となったと聖書は述べています。

そのような中で神様の真実な民が起こされますが、その民の特徴は何でしょうか? 「ここに神の戒めを守り、イエスの信仰を持ち続ける聖徒の忍耐がある」(黙示録14:12欽定訳)

エリヤのメッセージを聞いて、真の義を理解し、真の福音を回復し、真の悔い改めの経験をした人々の結論、その経験が表す姿は何でしょうか? それが、神の律法、戒めを守ることです。それがイエス様の信仰を持つ人々であると、結論として語られているのです。それが福音なのです。

主は、戒めを破り、堕落した人類を救って永遠に生きるようにするために、戒めを守ることができる人に、変化させなければならないのです。始まりは、律法を犯すことからだったので、律法に対する従順によって終わらなければなりません。それが福音であり、とても明らかなものです。福音がもたらすべき流れです。

皆さん、これが終わりの時代に、エリヤが起こされて、果たすべき使命です。しかし、昔のエリヤが無視され、イスラエルの問題児、イスラエルを悩ます者、と非難され、バプテスマのヨハネも認められず、首を切られて死んだように、最後の時代エリヤの働きも、そのように扱われるのです。

昔のエリヤの時代、第二のエリヤであるバプテスマのヨハネの時代、第三のエリヤたちの働く現代も、教会が真理に暗くなり、堕落し、背教した状態にあります。これは、聖書を通して、非常に明らかな話です。

この時代に、主がどのような人々を呼び集められるかというと、神様の戒めを守る民、イエス様の信仰を守る人々を、主は呼び集めておられるのです。

そのような民を準備させる使命、それがエリヤのメッセージです。一つの民を準備させる使命です。何のためでしょうか? 神様と顔を合わせて生き、主の前に立つことができ、最後の審判に備える人々を起こすためです。

皆さん、律法は従順を要求しています。律法は、律法を行う者が、義であると述べています。しかし、問題は、私たちには律法を行う、義を行う力がないということです。私たちの内にはないのです。ですから、律法によらない義を下さったのですが、それが、イエス様を信じる義です。しかし、イエス様を信じる義は、戒めへの不服従を許可するものではありません。イエス様の義は私たちの内を変化させ、常に成長させ、何があっても、命を懸けても、主の命令と約束を必ず守り、主の契約を守る従順な民にさせるのです。それが最後の時代の最終的な証人です。この証人が現れれば、主が来られるのです。

先ほど述べましたが、真理は漸進的に、常に回復されて、最後に完全に回復される必要があるのです。そのようにして、全ての真理が、本来の真理が全て回復された後に、主がこられます。なぜなら、真理は光であり神様だからです。

私達は闇を持って、罪を持って、誤謬を持って、光であられる主の前に立つことはできません。人は、各時代ごとに、自分が受けた光によって審判を受けて救われます。しかし、最後の時代に、完全な光が回復される必要性があります。その理由は、その時すべての光を理解し、主を正しく理解して、完全に屈服する人たちの信仰と生涯を生きる証人たちの証言と証しが必要だからです。

今、証人と言いました。その証しによって、何が起きるかというと、ついに審判が終わるのです。それによって、サタンの滅亡が確定し、神様がこの世界に、新しい天と地をもたらしてくださることができるようになるのです。

神様はそんな回りくどいことをしないで、罪を犯したサタンも悪人も、有無を言わさずすべて消し去ってしまえばよいのではないでしょうか。しかしそうするなら、全宇宙の天使達と住民達の中に、疑問が残ることになります。

そこで、罪の原因と結果の全てが明らかにされ、それが審判され、神様の愛と正義が擁護されなければならないのです。

そのことは信仰によってのみ可能です。 義人は、信仰によって生きるとあります。信仰によって、義とせられ、救われるだけでなく、義によって生きるようになるのです。信仰によって義とされるだけでなく、信仰によって救われるだけでなく、信仰によって、生きるということです。義人として生きるということです。聖書は、悔い改めて救われた人が、主のみ言葉に従うことなく、不従順であっても良いと許可を与えたことは一度もありません。

どの時代にも、十字架上の片方の強盗が受けたような、そのような救いを受ける人がたくさんいます。その強盗は人生の最後に救いを受けました。彼はその後、降りてきて悔い改め、主を受け入れ、自分を屈服させる霊的な経験を証明する時間がありませんでした。

主は、彼の純粋な悔い改めと、屈服そのままを、その蒔かれた種が悔い改めの実を結ぶことを認めて、救われました。私と共にパラダイスにいくと約束されました。多くの人々は、そのような、十字架上の強盗のような信仰を持って救われるのです。それは事実です。しかし、歴史の最終時代には、エリヤの到来と使命を通して、144,000という数字で象徴される、神様の戒めを守る最後の証人が起きなければなりません。それによって、神様は正しい方で、サタンが間違っていることが証明されなければなりません。

主の律法を守ることも、救いも私達の力によってではなく、神様のみ霊によって成し遂げられるのです。救いは義の仮面ではなく、神様のみ霊の力と恵みが私の中にもたらされて、永遠に生きられる人に変化させる能力です。

それを証明して見せる人々が必要です。 それによって終わりが来ます。そうなるまでに、全ての光が回復されなければなりません。ですから聖書は新しいエリヤの到来を預言しているのです。

最初のエリヤ、二番目のエリヤもやって来きました。三番目のエリヤは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、この地上に来ると預言されています。主の民を、もう一度父のもとに立ち返らせる、それによって、神様にお会いできる、神様と顔を合わせることのできる民を準備させる者が現れるのです。この事実が、私達の内に培われるべきです。

自己否定や犠牲がなく、この世の無意味なものから分離することも求めない、安易な宗教ではなく、徹底的な改革と悔い改めを促す、エリヤの使命が必要とされているのです。

ここで、少し証の言葉を紹介したいと思います。 これは『キリストのたとえ話』という本です。この本のP312に素晴らしい、私たちがいま研究しているみ言葉のとても良い注解がされています。

「キリスト教は、ただ罪の許しを与えるだけではない。それは、まずわたしたちの罪を取り去って、その空いた所を、聖霊の徳で満たすのである。これは、神の光を受けて、神にあって喜ぶことである。自己を全くむなしくして、絶えず、キリストの臨在の祝福を受けることである。キリストが魂を支配なさる時に、そこには、純潔と、罪からの自由がある。福音の計画の栄光と、その満ち満ちた完全さとが生活の中に完成されるのである。救い主を受け入れることによって、完全な平和、完全な愛、完全な確証の喜びを味わうことができる。神が確かにみ子を世の救い主として、世界に送られた証拠として、わたしたちの生活の中に、キリストの品性の美とかぐわしさがあらわれるのである」(『キリストのたとえ話』P389)。

 

次に『キリストの山上の教え』という本です。

「しかし、許しは、多くの人が考えるよりももっと広い意味を持っている。神が「豊かにゆるしを与えられる」という約束をお与えになる時、その約束の意味はわたしたちの理解できるすべてを越えるかのように、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」と神は言い添えておられる(イザヤ 55:7―9)。神の許しは、罪の宣告からわたしたちを解放する法的行為であるばかりではない。それは罪の、許しであるだけでなく、わたしたちを罪から、救うことである。心を変えるものは、あふれでる贖罪的愛である。ダビデは、「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」と祈った時、許しということを正しく理解していた」(『キリストの山上の教え』P119)

 

これが許しであり、福音です。イエス様がこの地に来られて、私達を解放なさるのですが、何から解放されるのでしょうか? 私たちの肉体的な疾病から解放されるのでしょうか? 悲しみと苦痛と悩みからですか? それも含まれていますが、イエス様が来られて私達を解放なさるのは、私達の中にある罪の力から、私達を解放させるために、来られたのです!

私達の内にはローマ書7章にある、私達をしきりに罪を犯させようと誘惑する罪の力、悪があります。私の内にある罪の力、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫ばせた、その罪の力が私の内にあります。その罪の力から、私を解放し、救い出すために来られたのが、イエス様の受肉です。それが福音ではありませんか?

皆さん、信仰は、行うべきものです。愛は力だからです。私が学生時代の先輩の話です。今私は、その頃とは違いますが、 私が21歳の頃で、その先輩は27歳位でしたので、とても年上に感じていました。今はそうではありませんが、大先輩に感じていました。

ある雪が降っていて、本当に寒い日でした。寒くて、雪が降った日でしたが、その日、その先輩は幸せそうではありませんでした。 憂鬱で孤独で寂しそうにして、自分の恋人のことを思っていました。恋人のことを思って、幸せではなかったのです。 今思うとその時の気持ちがわかります。先輩は、朝起きてみ言葉を読み、また運動もして、ちょっと歩いたりして、それでもまだ安心できないのか、浮かない顔していました。そのうちに、着替えて、厚手のオーバーを着て、雪が降っていたので、頭を覆うフードをかぶってマフラーをして、手袋して、厚手の靴下と靴を履いて、出かけようとしていました。

「先輩、いったいどこに行かれるのですか? この寒い雪の日に?」「行く所がある」、そう言って先輩は、恋人の所まで何キロも歩いて行ったのです。

 

その時、私はこのように考えました。「自分はそんなことはしない。こんな寒い雪の日に、何キロも歩いて行くものか」と。その頃の私は、愛の力を知らなかったのです。愛は行動に表されるのです。愛は私達の内に、力を与えて、何かをさせるので、愛は驚きです。

 

以前、新聞で読んだことがあります。とても小柄なお母さんで、それほどがっしりしたお母さんでないのですが、自分の小さな子供が、車に轢かれました。それを見たお母さんは、急いで走り寄り、自分も気がつかないうちに、その車を持ち上げました。小柄なお母さんが、周囲の人が、その子供を引っ張り出すまで、持ちあげていました。車を置いたら、力が抜けてしまいました。愛は、驚くばかりの事をします。

愛は、ある意味で狂信に似ています。それは、まさにマクダラのマリヤの物語ではありませんか? そうですよね。マグダラのマリヤは、300万円分の香油を買いました。300万円は、一年分の給料です。300万円の香油を買って

イエス様に持っていき、瓶を割り、頭にかけて、髪の毛で足を拭きました。気が狂っていると言えませんか?気が狂っていなければ、このようなことが出るでしょうか。ですから、イスカリオテのユダとシモン・ペテロと他の弟子たちが言いました。「いや、いや、狂信だ。イエス様がそのようなことを許されるか? 悪女なのに、七つの悪霊に取りつかれていた女なのに、遊女なのに」。「この女の過去をご存知ないのですか? それを、売って貧しい人のために捧げればどれほど大きな働きができるだろうか」そんな声が聞こえてきます。狂信です。気が狂っています。

しかし、主は、「黙って見ていなさい。貧しい人々は、あなたといつも一緒にいる、だが私はあなた方といつまでも一緒にいるわけでない。これから後、私の福音が宣べ伝えられる時には、この女性の業績も福音とともに全世界に伝えられる」と主は約束されました。それが福音です。

福音は、主に対する愛は、私達の内に、心と思いと精神を尽くして主のために何かしたいという思いを与えるのです。従順にさせ、主の御心通り生きるようにさせるもの、これが福音です。

私達の心の中に主を喜ばせたいという愛がないために、常に、堂々巡りの人生なのです。「私は、もともとこういう性格で、私の母がそうで、私の父もそんな人だった。私の生まれ持ったものだから、もともとこんな感じだから・・・」。言い訳しないでください。生まれ持った性質なのでしょうか。

神様を知らない人でもタバコ止め、飲酒をやめ、自分自身で変わっていく人がたくさんいます。神様を知らない人もできるのです。私たちの問題は、イエス様のみ手に委ねないことで、主の愛と恵みと感謝が、私たちの中に沸き上がって溢れていないことが問題であって、何の言い訳があるでしょうか。

皆さん、福音と救いは、聖書の通りに信じることです。主は私達のうちにある、罪の力から救い出し、解放するために来てくださいました。主の前にひざまずき、「主への冷えた心があります。罪の力があり、どうすることもできません。私を救ってください」と、心から、切に願って、主の前にひざまずいて、祈ってみてください。なぜ、解放されていないのか。なぜ、従順になれないのか。祈ってみてください。そこから、神様に栄光を帰すことが起きるのです。

その働きのために、神様がエリヤを送って教会を目覚めさせ、準備させる働きをされます。熱心に働くべき時に、私達は生きています。この重要な時に、皆さんは何をされますか? 私達は、大きな働きをすることはできないかもしれません。しかし、私たちが信じて生き、語ること自体がエリヤの働きとなるべきです。

皆さんが1万人を救うことができず、100人を救うことができなくとも、信じて生きて、語る、皆さんの生涯そのものが、主の大いなる恐るべき日が来る前に、一つの民を準備するエリヤの働きとなるべきです。主が私達をそのように用いられますことを切に願っています。

 

  お祈りします。

「天の父なる神様、主のみ霊を通して神様の愛を私に注いでくださることを切に願います。それによって、私の内に全くない義を芽生えさせて下さり、主のみ言葉に従順に歩むことが、苦痛ではなく、楽しく、感謝となりますように。主よ、私達の心の中で、どのような事でもすることができ、小羊がどこに導こうとも、ついていく、そのような願いを私達の心に与え、行わせてくださいますように。イエス・キリストのみ名によって、切に祈ります。アーメン」

 

 

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皆様

お久しぶりですお願い

 

 

しばらく間が空いてしまったのですが

また今日から少しずつ更新していきたいと思いますドキドキ

 

 

 

本日のタイトルはクリスチャンの成長ですが

赤ちゃんはこの世に生まれてから

絶えず成長を続けていくのと同じように

生まれ変わった私達クリスチャンも

霊的には赤ちゃんなので

私達の親であられる親の背中を見て

絶えず成長を続けていかなければなりませんビックリマーク

 

 

人間の成長と自然界の成長の真理は

共通していて

御言葉という種を植えたら

愛情という水と日光を浴びさせて

聖化という名の成長を待ちます照れ

 

 

その際に私達の成長の邪魔となってしまう

偶像という名の雑草を抜かなければならないのですキョロキョロ

 

 

自然界には聖書の真理が

たくさんちりばめられていますねラブラブ

 

 

 

 

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安息日を守るためにどこかへ行く必要はありません。時間の聖所が私達に近づいてきます。いるところで、待っていると主が私達に近づいて来て下さいます。それが安息日です。

神様の創造の力と御言葉の約束の中で休むこと、それが安息日です。私達が信じる信仰は神様の約束を信じる信仰です。主は私達に安息を約束してくださいました。皆さんには苦難や試練、辛さがあるとしても神様は私達に安息日の安息を与えてくださいました。

安息することで私達の心が新しく生まれ変わり、霊的な力が活性化し、信仰が深くなり、私達の問題が解決できるきっかけになるのが神様の安息日の目的です。この機会に神様の安息を十分に受けましょう。

今日は皆様にクリスチャンの成長の問題についてお話したいと思います。私達の品性の完全が何を意味するかということを説明します。

私が皆様に、品性の完全やすべての罪に勝利することが出来ると言う真理を伝えていると、多くの方がこの真理を重荷に感じ、負担を感じられるようです。自分には無理だと思う方もおられ、この真理をそのまま受け入れ、心からそのようになろうとしても、失敗を繰り返して挫折感が起きて、自分は完全になることは不可能だと思って、落胆してしまう方がおられます。

そのような人は、クリスチャンの成長と完全な品性になることが実際的に何を意味するのかを確実に理解する必要があります。最終時代になぜ女の残りの子らが必要でしょうか? 彼らは何を経験すべきでしょうか? 神様の戒めを守り、イエス様の信仰を持ち続ける経験が必要です。そしてこれは実際的に心の中で成し遂げられる経験です。

神様の奥義はコロサイ書1章27節に「栄光の望み」だと言われています。私達の望みは罪の本質を持っている人間のために、イエス様が私達の中に内在されるとき成し遂げられます。これこそ栄光の望みです。私達の希望です。

イエス様が私の中に内在される経験を持続することは、継続的に主の戒めを守る経験であり、罪と誘惑に勝利する経験です。私ではなく私の中に内在なさるイエスキリストがそうしてくださるのです。

ですから私達には何も自慢するものがありません。私達は毎日どのように屈服するかを学ばなければなりません。私の心をどのように捧げ、私の思考と感情、動機までもキリストに捉えられる経験をする必要があります。そして、主が私を導き支配されるようにするのです。

 

クリスチャンの成長とはどんなことでしょうか? このように考えてみましょう。成長がないのは死んでいるのと同じです。クリスチャン経験の中で成長していないことは死んでいることです。霊的に成長する経験がない人は死んでいるのと同様です。私達は必ず成長する必要があります。

それでは、この成長と言うのは何を意味し、成長して完全な所まで至るというのは何を意味するのでしょうか?

まず結論を言った後で、この問題について説明します。この地上で完全な成長に到達したと思うことが完全ではありません。そこに目標や焦点を合わせていくのではありません。多くの人がこの点を誤解して混乱しているためにそうなっていない自分を見て落胆し、この真理に対して違和感を覚え反対さえするのです。

聖書をよく研究してみると、神様が私達に望んでおられる完全とは、もちろん私達がキリストに似たものとなるように成長することを期待しておられますが、今私達に望んでおられる完全とはそれだけでありません。私達は結局クリスチャンの完全を成し遂げさせていただけます。主の働きと恵みの中で成し遂げていただくのです。しかし、それだけが完全ではありません。完全に到達することを目標にして背伸びしてるため落胆してしまうのです。

エペソ4章13から15節です。

「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである」。

13節は私達の目標であって、成し遂げなければならないことは知っています。私達は最終的にここまで至らなければならないことは、理解しています。私達がイエス様のようになることです。これに反対する人はクリスチャンではありません。

それでは、クリスチャン品性の完全は何を意味するのでしょうか? 私は人の本質、本性の完全を言っているのではありません。イエス様が再臨されて私達に永遠の命を与えて下さるまでは、完全な本性は私達には不可能です。私達は常に罪の本性を持ち戦いながら生きていかなければなりません。

次にマルコによる福音書4章26から29節です。

4:26また言われた、『神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。 4:27夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 4:28地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。 4:29実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである』」。

イエス様はクリスチャンが霊的に成長し、完全な経験に至ることを植物の成長の例えを通して私達に教えて下さいました。私達が霊的にどのような経験をし、どのように成長し、どのぐらいまで成長すべきかを説明されるために示してくださったのが植物の成長のたとえです。種まきの時から実を実らせ収穫するまでの成長です。

これがクリスチャンの成長と完全の経験がどのようなものかを教えてくださった最高の啓示です。成長は静かに行われるので目には見えません。種をまいてその種が土の中でどのように芽を出すのか見えません。芽が育つのも目には見えません。時間がたつと大きくなっているのを見ることができます。

花や木の成長は目に見えません。それなのになぜ私達は、個人的に自分がどれくらい成長したか、以前の自分と比べて見たがるのでしょうか? 自分の成長は自分ではわかりません。成長は目には見えません。この原則を自然界から学んでください。生命を育てるのは神様にしかできません。私達にはできません。

聖化は一生の課題です。それでは成長とは何でしょうか? 訓練の機会が継続的に与えられることを意味します。クリスチャンとして多くの機会が私達に与えられます。その時与えられた機会に比例して私達の経験は豊かになります。たとえ失敗したとしても私達はその経験を通して成長する事ができるのです。

私達はたくさんの失敗を繰り返してきた事を通して現在の自分があります。失敗を通して主の御心ではなかったことや、正しい道ではなかったことを身にしみて経験してきたのです。

信仰の成長とは、どのぐらい天使に近くなったかとか、どれほど清くなったかを確かめることではありません。そのように期待するなら皆さんは一生泣き崩れて終わることになります。

クリスチャンの成長の姿は自然界の中に示されています。あるときは雨風に打たれ、熱い日差しに当てられて枯れそうになったり、折れたり、それでもその木は、その中に命がある限り生き続け、結局は実を実らせるのです。

クリスチャンの生涯の中にイエス様が生きておられ、自分の心を捧げる限りその人には成長があるのです。しかし、成長は静かに行われ、目には見えません。

ん。

それでは、クリスチャンの成長のために一番最初に育たなければならないのは何でしょうか? 植物の成長で一番最初に育つのは根です。目には見えない根の成長はとても重要です。根は栄養分を取り、倒れないよう支えるために基礎の役目をしています。上に成長するためには、目に見えない地下の成長が大切です。それは、キリストの中で毎日主と共にいる経験です。

高いビルを建てるときは地盤を深く掘ります。地面を深く掘って基礎をしっかり固めます。目に見えない根、これは私達が毎日キリストと共にいる経験ですが、私達の実際の生活の中で何を意味するでしょうか? それは聖書を研究することと祈ることです。

主と共にいて成長する方法は三つあります。まずお祈りです。主と交わり、瞑想して聖霊様を通して主と実際的に交わるのです。

二つ目は御言葉です。生きている御言葉です。御言葉を毎日読み、研究して真理の光を通して自分を見直すことが真理によって清くなることです。真理と違ったら自分の方を見直してください。改革のない福音は偽りの福音です。自分を改革しないのは感情的な信仰です。

次は証しです。私達が毎日お祈りして御言葉を研究したら、自分が受けた神様の恵みを他の人に証ししたくなります。自分の周囲の人に自分を救ってくださった恵みの経験について話したくなります。

お祈りと、御言葉を研究することと、証しを語るようになるとき、その人は成長するようになります。

しかし、これらのことを私が成長するためにやろうとしても、長続きできるわけではありません。自分の力でやろうとすると一か月ぐらいであきらめたくなります。

イエス様が私の中におられることは奥義です。栄光の望みです。神様の奥義が成し遂げられるのです。キリストにある成長は私達の信仰生活のいわば副産物です。私達が主の御言葉を食べ、祈って神様を証していくうちに自然に成長しているのです。成長のために努力はいりません。木や花が成長するために努力するのを見た事ありますか? 成長と実がなるためには、根がしっかりして栄養分を吸い取り、太陽を向いて、主の方法と原則で生きていると自然に得られるのです。

私達人間は成長するように創造されました。私たちが生まれ変わった時私達は新しい被造物になります。新しい被造物と言うのは私達の中に神様の種が植え付けられたことを意味します。そうすると、罪を犯さないのではなく犯せなくなるのです。そのような成長の素晴らしい力を経験する可能性が私達の中に与えられるのです。

その霊的な能力は主がすでに私達に与えて下さいました。私達はそれを受け取ればいいのです。私達はただ食べて、吸い上げるだけです。成長は私達が主と共に生きている限り自然に成されていくのです。キリストの中に生きることによって私達は成長しますが、それは目には見えません。

そして、成長がストップした地点を完全というのではありません。完全とは、成長中のどの段階においても完全だと言う意味です。そのように理解しないと私達は落胆してしまいます。

聖書は完了の境地が完全だとは教えていないのです。神様が神様の領域で完全であられるように、私達は人間の領域の中で完全でいることができます。しかし、これ以上成長する余地のない完成した完全無欠の状態というのは、神様だけのご品性で、私達は救われて天に行った後も継続的に成長します。私達は永遠の神様のご品性を目指して永遠に成長するのです。

この観点から見るなら、完全というのは、私達がもうこれ以上何もすることがないという境地に達することではありません。私達はただ、その日一日をキリストの力によって完全を目指して歩もうとするだけです。

キリストが私の中におられ、私がキリストの中にいて、私に命があり神様の種が私の中にとどまっているなら、完全に歩む一日を経験をすることが出来るのです。

また、もし転んだとしても悔い改めて、罪を憎み戒めに従い主にすがって歩んでいくなら、神様はそのような私たちを完全であると認めて下さるのです。このようにクリスチャンの完全を理解すべきなのです。

 

もちろん、最終時代に生きている私達が教えられている、最後の患難の時の完全は、印を押される完全です。今まで述べたような歩みを通して、成長してきた人は実を結ぶのです。日々に祈りと御言葉の学びと証をしてきた人が、実がないと言うのはおかしな話です。毎日種とともに歩み、訓練を受けてくるなら必ず実をむすぶはずです。なぜならば各段階ごとに完全に成長してきたからです。

成長は主が行われることです。光を与え、雨を降らせ、栄養を与えて下さるのは神様です。毎日、私たちが主の中で、新しい命の中で生きてきたのなら必ず豊かな実を結ばせるのです。なぜなら成長は主の約束だからです。

成長そのものは神様のお働きですが、私達の協力も必要です。種を植えたら世話をしなければなりません。土を耕したり、水を撒かなければなりません。

ホセア6章3節です。

 

主は目が出る時も成長する時も早雨聖霊を与えて下さり最後の時に後の雨を降らせ印を押してくださるのです。これは主の仕事です。

ホセア145から7節。

14:5わたしはイスラエルに対しては露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り、14:6その枝は茂りひろがり、その麗しさはオリブの木のように、そのかんばしさはレバノンのようになる。14:7彼らは帰って来て、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲き、そのかんばしさはレバノンの酒のようになる」。

私達は主の中にいればいいのです。どのようにしているのでしょうか? お祈りして、御言葉を研究して、証をすることです。この方法で主の中に居ることです。主を知ろうとすることが主の中に居ることです。そうすると主が露のように私の中におられて私達を優しく濡らしてくださいます。主と一緒にいることを感じられるようになります。そのことは自分だけが感じられます。主の御言葉を研究する時、聖霊による感動を私に与えて下さいます。祈るとき急に涙が流れることがあります。感謝の気持ちで、主が恋しくて涙が出ます。これは主が私達の中におられる証拠です。自分だけは知ることができます。

 

神様が私達を愛されると言うのは具体的にはどのようなことでしょうか?

神様は私達が滅びないで永遠に生きることを望まれます。それが神様の愛です。

神様は私のような罪人を滅ぼさないで永遠に神様とともにいることを望んでおられます。これより大きな愛はありません。

毎日の経験で神様の愛を体験し、聖書を通して主の導きを悟ると、神様が望んでおられることは、私が主の品性に似たものとなり、永遠に天にいることだということがわかります。これ以上何も必要ありません。

神様の導きの中で真理を悟った人は、芽としては完全ですがそれは始まったばかりです。その人はまだ軟弱です。その人はバプテスマを受けたばかりの、生まれたばかりの子供として完全なのです。そのように理解してあげなければなりません。

その人が実が実るまで待たなければなりません。実の実った完全にすぐになるのではありません。

私達はお互いを扱うとき、このような目線で見なければなりません。神様が不完全な私達を見られるように、親が赤ちゃんを見るように見るのです。私達はお互いを非難してはなりません。クリスチャンの成長と完全の問題を正しく理解する必要があります。

私達がイエス様と共に歩み成長していく中で倒れることがあるのは、イエス様と一緒に暮らしているのではなく、たまに訪ねるような形でイエス様といるからです。自分が必要な時だけ訪ねます。主は共に暮らそうと言っておられるのですが私達が行かないのです。なぜなら私達は自分の偶像や誘惑を捨てたくないからです。罪を心に抱いているなら主と一緒に居ることはできません。

クリスチャンの成長と完全は、毎日の屈服と献身を伴います。心の中の全ての罪を主に捧げ、自我が砕かれ屈服する経験を毎日しなければなりません。この経験は、一度経験したらそれで良いというものではありません。日々、時々刻々行わなければならないのです。最初はまじめに屈服したけど、その時の心を忘れ、自分の思い通りに生きてから、又戻って屈服しようとすると難しくなります。

罪の誘惑に勝利するというのは義の習慣から生まれますです。聖化とは義を習慣化することです。主にすべてを捧げる経験を毎日行うと歩む道が楽になります。よろけるかも知れませんが転びません。一人で歩むと転びます。主が共にいてくださる信仰が必要です。

聖書の約束を信じることが信仰です。信頼することです。苦難が押し寄せてきた時、主の御言葉を思い出し、主の約束を信じて下さい。聖書の人物を救われた主は、今も私達を同じ方法で救ってくださいます。聖書の人物の経験は、主が私達に対して行ってくださるという約束なのです。

主の中に居るというのは静かな信頼です。神様の中で休むことです。大きな試練が迫っても主の約束と力を信頼して休むことです。私達に大きな問題が起きても、神様の導きと摂理と力を信じて休めるのです。

私も心配事がたくさんあります。だからこそ主の力の中で休むことがどういうことかを体験します。主の力と約束の中で休まないと私は押しつぶされます。

主の安らぎ、安息を経験しないと私は押しつぶされます。

マタイによる福音書11章28から30です。

11:28すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 11:29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

軟弱な私達が神様と共に歩むために必要なものがくびきです。これは主の約束です。皆さんにどのような問題があっても、主の前に悔い改めて出てきてください。そしたら主が一緒にくびきを負い主の御心の通りに導いて下さいます。

主の前に心を捧げ、主のくびきを負えばいいのです。主と一緒に歩むなら、私達の主人は自分ではなく神様です。私達は軟弱なのでただ主を信頼してついて行くのです。主が私達についてこられるのではありません。神様から力をいただく条件は徹底的な屈服です。

その結果がコリント第二3章17,18節です。

3:17主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 3:18わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。

栄光から栄光へと、継続的に段階ごとに成長していくことがクリスチャンの完全の経験です。それはイエス様の品性を追いかけることです。この成長の経験をするために、私達に毎日チャンスが与えられます。今日も明日もチャンスが与えられます。チャンスが来た時キリストの中に居てキリストが私の中におられるなら完全な生涯を過ごすことが可能です。

たった何時間か前に倒れて涙を流したとしても、主の前に出てきて屈服し、主に赦しを求めて主が新しくしてくださったことを信じるなら、その瞬間完全な経験をするのです。これまでクリスチャンの成長と完全について、間違った理解をしていた方がおられるなら、その誤解を解いて、聖書的な正しい霊的な経験を通して成長していかれることを祈ります。

 

 

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