皆さん、こんにちは![]()
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今日は信仰についての説教内容です。
何かを信じる「信仰」とはなんでしょうか?
多くのクリスチャンが信仰の戦いにおいて
倒れてしまう時に自分はもうだめだと失望します![]()
しかし本当に信仰を持っているなら
そんな時こそ赦してくださると言ってくださった神様の御言葉を信じて立ち上がるのです![]()
そして更に大事な事は
赦していただき、立ち上がったからこそ
今度は同じ失敗をしないようにする「行い」が大切なのです![]()
「信仰」と「行い」は絶対に切っても切り離せません![]()
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私達はイエス様を信じています。またイエス様の十字架と血の力を信じています。私達と神様の間で執り成しの祈りを捧げられるイエス様の御名を信じ、最後まで私達と一緒におられるという御言葉を信じています。また、イエス様が私達を天に迎え入れてくださるという約束を信じ、永遠の天国を信じています。私達はこのような信仰を基礎にして信仰生活を送っていると考えています。
しかし、何をどのように信じることを信仰と言うのでしょうか? 信仰によって信じるというのはどのようなことなのでしょうか?
私たちは見えないものも信じています。信仰によって神様の御言葉でこの世界が創造されたことを信じます。信仰がなければ知識そのものが存在しません。
私達が信じないなら、知っているという知識は存在しません。2+2=4です。なぜでしょうか? そのように公式を作ったからです。その意味で信じると言うのは知識の基礎です。
何かの知識を持つ時、先に信じないなら知識は生じません。私達が空をあおいで、太陽や星、月を見ます。地球の自然を見ます。私達がこれらを見て、これを創造された神様がおられるという事実を信じるとき、私達の信仰に知識が生じます。
私達が物を見る目、聞く耳、においを嗅ぐ鼻など、目に見えて感覚で感じられるものは具体的な証拠があるのでその存在を受け入れることができます。
しかし、その目や耳や鼻などを創造された神様の力は目に見えません。私達は、その目に見えない神様の力を目に見えるように信じなければなりません。信仰は私達の知識と経験のすべての基礎でなければなりません。
イザヤ書1章18節を読みます。
「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」。
皆さんこの事実を信じますか? 信じるなら、どうして神様の赦しを疑うのでしょうか? 多くの人は聖書を信じ、神様の赦しの約束を受けたにも関わらず、疑ったり不安を感じたりしています。その主な理由は信仰が足りないからであって、神様が変わられたからでも、主の約束が揺らいだのでもありません。
このイザヤ書の神様の約束を信じることによって私達の救いが始まるのです。それが信仰です。
イエス様は私達の汚れた罪を、この世のどんな洗剤もこれ以上白くできないほど白くして下さると書いてあります。イエス様が私達に与えてくださるのは義の白い衣です。それはイエス様の品性という衣です。イエス様が私たちの心を雪よりも白く創り変えて下さるという意味です。
このような約束があるにもかかわらず人々は赦しの確信がありません。すぐ罪悪感に負けてしまいます。
イザヤ書44章22節
「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」。
主が私達の罪を赦されるとき、私達の罪を忘れるという選択をされるのです。神様は忘れることは出来ません。すべてをご存知の方なので忘れることは出来ません。しかし、私達が真実に悔い改め、自分の罪を悲しみ、その罪を捨てるなら、主は私達の罪をお忘れになるのです。雲や霧が消えてしまうように忘れてしまうと約束してくださいました。これが主の赦しです。このような約束があることを知っているのに、なぜ私達の心は揺らぐのでしょうか? それは信仰の量が不足しているからです。自分の信仰の分量はどのくらいなのか、このことを深く考えてみてください。
私達は信じることによって知識を得るのです。信じるとき知るようになります。もちろん、創造の十分な証拠があります。ノアの箱舟の十分な証拠があります。それでも聖書に記録されている御言葉を信じなければなりません。聖霊が与えられる約束があります。それでも私達は聖霊を求めて祈らなければなりません。その時主は私達に聖霊を与えて下さるのです。
神様を知るには私達の全面的な協力が必要です。あの人は信仰が強いとか、あの人は信仰が弱いとか言います。それは信仰の分量についての話です。
結局、私達は信仰によって知り、信仰によって与えていただくのです。信仰によって生きるのです。
ローマ人への手紙4章18から24節です。
「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである。しかし『義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである」。
アブラハムは手の言葉を信じました。彼に一人の子供もいなかった時、彼は主の御言葉を信頼しました。アブラハムが神様を知ること、主の御言葉を受け入れること、そのすべての始まりは彼の信仰でした。主の約束を信じる信仰でした。主の御言葉を信じる信仰でした。
これは皆さんよくご存知の聖書ですが、アブラハムのように信仰を正しく活用しないために、信仰の分量が少ないために、多くの人の信仰は上がったり下がったりを繰り返します。世と罪に対して勝ったり負けたりしています。
目に見えるものに振り回されて上がったり、下がったりします。私達は目に見えない信仰によって生きるべきです。この信仰の分量の差がクリスチャンの生涯に大きな違いを生じさせます。
信仰があるように見える人もそうでない人も、結局上がったり、下がったりしています。なぜなら目に見えるものに頼っているからです。
信仰はすべてを無くしたように見えても、勝利する未来を見る目です。今は何も見えず何もないように思えても、天におられる豊かな父を信じる信仰によって生きていかなければなりません。目に見えないものを見えるようにして生きるのです。
アブラハムは、最初このような命令がほんとうに神様の言葉なのか信じることが出来なかったかもしれません。最初からアブラハムは信仰があって、神様の言葉を信じたわけではないと思います。
理解できなくてもアブラハムは考えました。この方は創造主であり、約束してくださった方で、全てを存在させ自分の生涯を導いて下さった神様だと考えました。アブラハムが小さなその信仰を生かしていくうちに、信仰は堅固なものになりました。
アブラハムも信仰を活用して信仰の分量が大きくなったのです。神様がイサクを供え物として捧げなさいと命令された理由は、アブラハムの信仰がこの世に勝利する信仰になったことを人々と全宇宙に現すためでした。
そして、最後の時代にはイエス様のような信仰を持って、神様の戒めを守る者たちが出現します。彼らはアブラハムの信仰を持っている者たちです。信仰の分量が大きくなります。それは毎日少しずつ信仰を活用して、今日の信仰が明日はもっと大きくなるための基礎となるようにしてきたからです。ですから私達は小さな信仰でも毎日正しく働かせる必要があります。
主が約束してくださった事は必ず成し遂げられます。今私達は、主が約束してくださった時から、成し遂げて下さる時の間に生きています。そして最終的に成し遂げて下さるその時を、私達は今日、自分に成し遂げられたかのように信頼して生きていかなければなりません。成し遂げられるかどうか疑うなら、私たちはまっすぐ神様に進んで行くことができなくなるのです。
ですから、その約束が成し遂げられたと信じる信仰によって、自分の生涯が管理されなければなりません。そのようにする時神様に栄光をお返しできるのです。
皆さんは自分の罪が許されたという証拠が見えますか? 私も見えません。
聖書に書いてあるので、私達はただその聖書のお言葉を信じればいいのです。赦しは神様の約束を信じる時起きる神様の恵みです。
信仰をどのように活用するかによって、私達の信仰の分量によって、赦されるのです。同じ約束が与えられているにも関わらず、ある人は信仰が揺らいでばかりいます。イエス様の清い義を私達に与えて下さるという約束を私達は信じなければなりません。
難しいですか? そうです。難しいです。しかし、主が私達の心の中に入れて下さった信仰の希望があります。それに聖霊様の感動があります。また多くの証拠を見せてくださいました。聖書の御言葉を与えて下さいました。
全く信じられないことを信じるようにと強要しておられるわけではありません。信仰の分量を増やすために、私達は毎日信仰を活用しなければなりません。
私達は信仰によって義を与えていただけます。
神様は、深い海の底に私達の罪を投げ捨てると、私達が理解できるような具体的な表現で、救いを約束してくださいました。私達はそれを信じるべきです。
この約束はアブラハムに対する約束だけではありません。私達のためでもあります。それが実際に私たちの心の中に刻まれなければなりません。
次はローマ人への手紙1章16,17節です。
「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである」。
神様の義はどのようにして私達に与えられるでしょうか? イエス様の義を私達はどのようにして受けられるのでしょうか? どのようにして私達が義なる者として認められるでしょうか? ただ信仰による義なのです。信仰がなければ義なる者になることはできません。
信仰からもっと堅固な信仰へ、そして動かされることのない信仰へと成長していくのです。そのとき、イエス様の義が私の中に成し遂げられるのは、私達の信仰の分量によってです。皆さんは心の中にどのぐらいの信仰をお持ちでしょうか? 主の約束をどのぐらい信じていますか?
私達の祈りの答えは私達の信仰の分量によります。私達の赦しの経験は信仰の分量によります。私達の救いの経験も私達の信仰の分量によります。私達が義なる者になれるかなれないかは私達の信仰の分量によるのです。このことを聖書は教えています。
私達は信仰によって生きています。私達は信仰がないと生きられません。信仰がないと、この世のストレスと心配事につぶされて生きておれなくなるのです。
この世で自分の十字架がない人は誰もいません。悲しみや寂しさ、自分の重荷を背負わないで生きている人は誰もいません。そいう意味では、この世は公平です。子供もお寄りも、みんなこの世が与える重い荷物に押しつぶされそうに生きています。しかし、私達は信仰をもって未来を眺める人たちです。
人々が絶望に陥るような時、ストレスと心配事で生きていたくないと感じるような時、私達は神様が与えて下さる義の衣を着なければなりません。主が与えて下さる赦しの約束が、今日も自分の中に満ちていなければなりません。それは私達の信仰の分量によって可能な事です。
疑いが生じ信仰がなくなると神様が見えなくなり、救いが消えてしまい、天国がなくなり、神様の赦しが感じられなくなります。それは私達の問題です。神様が変わられたのではありません。
主の赦しには制限がありません。私達が罪を告白して神様を信じるなら、どんな罪でも許されます。赦しは私達の信仰の分量によるのであって神様の約束が変わったのではありません。神様の約束は今も継続して有効です。
今日の信仰は明日の信仰の基礎です。また私達は信仰を活用することによって信仰の分量が増加しなければなりません。そのようにした人が最後の時代に主の証人となるのです。
証人とはイエス様の信仰を持っている人のことです。イエス様が十字架で亡くなられた時、神様に対する信仰が100パーセントありました。一つの揺るぎもありませんでした。イエス様は自分の魂を神様にゆだねるとおっしゃることが出来ました。すべてを成し遂げたと宣言することが出来ました。それがイエス様の信仰でした。
この世の人々はお金に頼り、権威に頼り、彼らの幸せな立場や雰囲気に頼って生きています。しかし、世の中から押し寄せてくる重荷に耐えられません。しかし、私達が信仰を持つことに成功すれば、この世に勝利する事ができるようになります。皆さんは今どのような問題がありますか? 子供に問題がありますか? 経済的に問題がありますか? 肉体に問題がありますか? 人間関係に問題がありますか?
イエス様が私達を迎えに来られ、私達を連れて天へ行かれる時、今皆さんが抱えている問題が存在するでしょうか? 目に見えるすべてがなくなってしまいます。
肉体の色々な問題もなくなるでしょう。人間の悪い関係もなくなるでしょう。世の中のストレスや心配事、悲しみもなくなります。それらはやがてすべてがなくなるのです。
それなのに、なぜ私達は目に見える物に頼って生きているのでしょうか? 目に見えない信仰で生きて下さい。その信仰によって勝利する人生にならなければなりません。
神様の御言葉と約束を信じることによって私達は義とされます。それは私達が義なる人生を送ったとか、義なる行為をしたから義とされるのではなく、主が私達を義なる者にすると言う約束を信じる信仰によって義なる者になるのです。
それでは、信じるだけでいいのでしょうか? 信じるというのは私達の生涯すべてを捧げる事を意味します。信仰は理性的に同意する以上のことです。自分の命をそこに投げ込むことです。それが信仰です。
主を信じる時、主の約束を信じる時、神様の力が私の中で成し遂げられることが信仰です。
主が私の中に働きかけて下さるのです。福音は信じる者を救う神様の力です。
主が約束してくださった創造の力です。神様の御言葉は、御言葉それ自体が約束であり、力です。能力です。そのことを信じることが信仰です。主の約束を信じる時、たとえば私の罪を赦し罪悪感を無くしてくださり、悪い心を無くし新しい心を与えて下さり、新しい動機と希望を与えて下さり、悲しみを喜びに変えて下さり、不安な心を幸せな心に変えて下さる主の創造の力が、私が信じるとき私の中で働きかけて下さるのです。それで福音は私達が信じる時、神様の力となるのです。
多くのクリスチャンは、自分が義なる者になったから神様が義なる者だと認めて下さると思っています。違います。主が義なる者にしてくださると言う約束を信じれば、主のその約束が私の中で主の力によって成就するのです。
主は罪を赦してくださるのはもちろん、罪の結果まで治療してくださるのです。罪をたくさん犯したために歪んでしまった性格や、意志の弱さから私達をいやしてしてくださいます。神様は実際に罪からの救いを私たちにもたらして下さる方です。
神様の赦しは罪と罪の結果から私達を解放して下さるためのものです。そのために十字架があるのです。赦しをいただいたら神様の力が私の中に入り、働きかけて下さるので、いやしが起きるのです。罪の結果生じたすべてがいやされます。それが赦しです。信じるなら聖霊の約束が成し遂げられます。
聖霊の実は聖霊が私の中で実を成らせる木を作って下さらないと成りません。
それが福音の力です。主が私の中で救いの働きを行ってくださるのです。聖霊の実が成るような畑を聖霊を通して作って下さるのです。
どのように畑を作ってくださるかというと、自分の心の罪が暴かれ、その罪を告白し悔い改めることによってです。
自分の心の本質が暴かれるのは、何か大きな事があった時だけではありません。私たちが毎日の生活の中で選択する小さな選択を通して、自分が暴かれていくのです。実際私達は、小さな事で評判が悪くなったり、おかしな人と思われてしまいます。
私達は毎日の生活の中で、聖霊の働きが自分の中に成し遂げられるように選択しなければなりません。御言葉に屈服し、主の御心を選択すべきです。
皆さんはこれまで、信仰を活用されたことはありますか? それとも失敗しましたか? 大丈夫です。今日から始めて下さい。やり直せばいいのです。そして、私たちは信仰から信仰へと成長していくのです。私達の信仰の分量によって神様は私達をお用いになることができ、信仰の分量によって義なる者になれるのです。信仰の分量によって最後の試練を乗り越えられるのです。
エペソ3章15から21です。
「こういうわけで、わたしはひざをかがめて、天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン」。
信仰によってすべてが成し遂げられるのです。神様が私達を救われることに制限があるとすれば、それは私達の信仰の分量の問題であって神様の問題ではありません。
このことはとても大事な私達の信仰の心構えです。信仰から信仰へと進んでいかなければなりません。今日働かせた信仰は、明日の信仰が大きくなるための基礎です。信じて下さい。信頼してください。神様を悟ってください。
ヤコブ書2章17から24節です。
「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」。
信仰は行いです。信仰は主の戒めを守ることです。信仰は主の御言葉を体験することです。信仰は賛美するのです。信仰は主の御心通り生活するのです。信仰は行いです。信仰と行いを切り離してはいけません。信じるなら必ず行為が伴います。このことを現代のクリスチャンは誤解しています。
ローマ人への手紙1章5節です。
「わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けたのであり」
信仰と従順は分離してはなりません。信仰と行いと従順は分離できません。それが福音です。
ヨハネの黙示録14章12節です。
「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。
どのようにしてイエス様は死んだ人を復活させられたのでしょうか? どのようにして病人を治されましたか? どのようにして水の上を歩かれましたか? どのようにしてイエス様は罪のない生涯を送られたのでしょうか?
すべてイエス様の信仰によったのです。父なる神様を信じるイエス様の信仰が大きかったので、イエス様のお祈り通り聞いてくださったのです。それがイエス様の信仰です。
これから主の残りの民には大きな苦難が襲ってきます。その時彼らはイエス様のような能力を表すでしょうか? その通りです。イエス様がなさったような奇跡が起きるでしょうか? その通りです。彼らは神様に対するイエス様のような信仰を持っているでしょうか? その通りです。
神様の戒めを守ることはもちろん、イエス様の信仰を持ち続けるのです。信仰から信仰へと成長して、イエス様が持っておられた分量の信仰を持つ者が現れなければなりません。そのような経験がこの番組をご覧の皆様に満ちることを切に祈ります。
お祈りします。
憐れみ深い天の神様、神様のお恵みとお導きを感謝します。主よ、私達は土くれにすぎないものです。そのため何も出来ないものですが、私達を神様の姿のように造り変えてくださる約束を感謝します。私達の信仰を増し加えて下さり、信仰から信仰へと育てて下さい。また義人は信仰によって生きるとおっしゃいました。そのような信仰で生きることができるようにお助けください。主よ私達の信仰の分量が成長しなければなりません。今日より明日、明日より明後日、信仰の分量が増加しなければなりません。そうでないと私達はこの世に勝利することが出来ません。主よ、私達をお助けください。私達に信仰を与えて下さい。イエス様の御名を通してお祈りします。アーメン
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