約10年のブランクを経て

再度歌舞伎を見始めたのが2007年、

すでに十八代目を襲名していた

勘三郎で見たものは、
「筆幸」、「らくだ」の他は、

「越前一乗谷」という
舞踊劇の郎党役、
「女暫」の舞台番、
「真景累ヶ淵」の噺家さん蝶など、
どちらかというと主役を若手に譲って
自分は脇で、という役が
多くありました。

2008年の11月には
浅草「平成中村座」での法界坊、
大詰の戸板を使っての
派手な立ち回りには驚きました。

シアターコクーンでの「桜姫」は
2009年7月、
七之助の桜姫に対し清玄役でした。


2010年4月の歌舞伎座閉場後は、
新橋演舞場が
歌舞伎上演の中心となりましたが、
勘三郎はこの年秋に
病を得て休演しました。


震災を経た2011年11月から、
浅草での「平成中村座」
7か月ロングラン公演の始まり、
勘三郎は「お祭り」で復帰し、
私もこの公演を
見ることができました。


翌2012年2月は
子息勘太郎の勘九郎襲名披露、
勘三郎自身は同じ新橋演舞場で
「鈴ヶ森」の白井権八を演じました。
 
私はこの公演を
見ることはできませんでしたが、
まだまだ不安な病状ながら、
少しずつ回復されている
という思いを強くしました。


3月には「平成中村座」で
舞踊「舞鶴雪月花」の「雪達磨」、
雪だるまの身ながら
炭屋の娘に思いを寄せ踊り抜くうち、
春の日差しに溶けてしまうという
切ない踊りでした。

往時の足拍子を強く踏みながら
絶妙な間で踊り込んでいくのとは
違い、肩の力がほどよく抜けた踊りの
ように見えました。
また新しい境地を見せてくれると
確信しました。


そして5月は「め組」の辰五郎、
初役に挑み、
上演が絶えていた場を復活するなど
意欲を見せていました。
これが見納めになるとは
思いもよりませんでした。


勘三郎さんが亡くなった後も、
私は相変わらず
歌舞伎を見に行きます。

舞台を見ているうちに、
勘三郎さんだったらここは
こんなふうに演じているだろうな、
という、
見えないはずの「勘三郎振り」を
感じることがあります。
 
そのたびに、失った悲しみを
痛感します。