今日

とある話があった




『美術って何』



『僕が、私が、ここに居る、っていう存在を示すためのもの』 と。



『美術は何から始まったのか』



『祈りから始まり記録へ、そして記録は叫びになった』 と。



『叫びは自分の存在を知らしめるものである』

『ならば、どうすればその叫びで走っている人を止まらせる事ができる?寝ている人を起こすことができる?無関心の人間に興味を持たせることができる?』



『叫びによって存在を知らしめるためには、驚きと不思議が必要だ』 と。

『驚きと不思議があれば、走っている人も止まる。寝ている人も起きる。無関心の人間に興味を持たせることができる。そしていつしか、それは個性となり、名前が無くとも誰なのかが判るようになる』 と。




『驚きと不思議、自然と人の観察、自然律を知り、感じ、扱えるようになれば、芸術家にも、小説家にも、音楽家にもなることができる。全ては観察と積み重ねだ。かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「モナ・リザ」を例として取り上げたとして、あの一枚を完成させるためにダ・ヴィンチは500枚ものデッサンをしていたのだから』 と。









…正直

かなりの衝撃を受けました。


美術なんかは特に、思いの塊であることを薄々感づいていたはずだったのです。


けれど、それは思っていたよりも固くてとげとげしたもの、叫びだったんです。


そりゃそうだよね。強い思いは叫びになるよね。

矛盾していそうな考えをなぜかわたしはすんなりと納得してしまったのです。



上で述べたみたいに

叫ぶってことは、自分がここに居ることを示すために、伝えたいことがあるから叫ぶんですよね。


けれどただ声の限り叫ぶのでは変人でしかない。

だからこそ私であれば美術、行動で示さなければいけないのだと。



祈るのは、記録は、人間が弱いからだと。非力だからと言われたとき。

弱いから祈り、明日もまたここに居られるようにと祈る。

非力だから記録を残し、ここにいたことを示そうとする。


改めて、どれだけ人が弱く、脆く、非力で小さいか、一人では生きられないかを知った。


一人では生きることができないから、いじめで亡くなる方が居るんですよね。



あぁ

また記憶が飛んでいるのか、端々が途切れている…





けれどひとつ


美術、小説、音楽


自分の中にコンプレックスがあって、プライドが高くて、その他諸々負の感情がいっぱいある。

けれど、それら全てをきちんと認められる、すなわち許すことができる人。


そんな人がこういうところで続いてゆく人なのだと。





授業中

泣き笑いのような表情を浮かべつつ話を聴いていた気がします。

今、書きながら、ちょっとだけ泣いたり。

何故泣くのか理由はわかりませんが。






そんな風に

今日は少し頑張って

自分の身になる話、言葉を聴くことができたのはよかったと思う。


まだまだ黒い何かが渦を巻くようにいっぱいあって

全部消化し切れなくて、泣きたくなって、悔しくて、

あの頃みたいに振舞うには無理があるけど、

ちょっとずつでも前進できていればいいな。


考えさせられる一日でした。



気づいているのかな





ではでは(。・ω・)ノ゙