TOBE小説工房 落選作です。
次、がんばります!
麦わらとカブト
あべせつ
在宅勤務が当たり前のこのご時世に、当番で出社していた俺と片岡はオフィスの両端に別れて座っている。退社時刻まであと三十分。その時、片岡が声を張り上げた。
「おーい、高杉、見ろよ。あのヤバそうな雲」
片岡が大窓を指差している。その指の先に不穏な黒い雲の渦が迫りくるのが見えた。雨はまだだが、街路樹の梢が揺れ始めている。
「もう三時だ。ちょっと早いけど大荒れになる前に、帰ろうぜ」
片岡はそう言うなり、帰り支度を始めた。
「今日は電車、何時までだっけ?」
キータッチを最速にしながら片岡に問う。
「全線十六時で最終だとさ。昔は台風で運行停止とかなかったよな。駅前の商店街も四時で一斉閉店だってよ」
「えっ、まじかよ。子供の誕生日ケーキ、予約してあるんだぜ」
駅まで十分。今なら余裕で買って帰れる。
「ちょっと待ってくれよ。俺も帰るわ」
「風で飛んだら大変だからな」
そう言いながら、片岡は被っていた麦わら帽のあご紐を固くしばりなおした。
「まったく、変な時代になったもんだな。帽子がないと白い目で見られるんだから」
「入店禁止に乗車禁止だろ。何より無帽者のレッテルを貼られてネットに拡散されるんだから恐ろしい時代だよ」
半年前から世界的に流行している致死率の高い謎の伝染病が、人の頭皮を介してうつるとあってツバ広の大帽子を被るのが常識になった。感染防止と社会的距離確保のためらしい。たちまち麦わら帽や菅笠が売れ切れ、生産待ちが続いている。今あるこの帽子を無くしたら、しばらくは手に入らない一大事だ。
その時、目の前の外線が鳴った。まだ就業時間内だ。出ないわけにはいくまい。受話器から甲高い老婦人の声がした。いつも暇つぶしに長電話をかけてくる上得意の客だった。俺が口パクで《津田のババア》と伝えると、片岡は片手を顔の前に立ててスマンの合図をすると、そそくさと先に帰っていった。
三時半を過ぎたとき、「すみません。今日は電車が四時までなんで」と慌ただしく口をはさんで一方的に電話を切った。明日の苦情よりも、今日帰れなくなる方が大問題だ。なにせ愛娘の三歳の誕生日なのだから。
帰り支度をして、麦わらを被りなおすと、ブチッと紐が切れてしまった。まあ、手で押さえておけば大丈夫だろう。
俺はオフィスを出ると一目散に駅に向かった。街に人影はまばらだ。予約していたケーキ屋も半分シャッターを閉めていたが、無事バースデーケーキを受け取ることができた。これでもう安心だ。改札を入り、最終電車を待つ。ホームには、ベンチで新聞を広げて読んでいる菅笠をかぶった初老の男性が一人きり。
--これなら、座って帰れるかな。
ほっとした瞬間、突風が俺の帽子を吹き飛ばした。麦わらは線路を走り、みるみる視界から消えていく。
--しまった、どうしよう。
電車がホームに入ってきた。ドアが開く。
仕方なくその姿のまま乗り込もうとする俺に、車内から罵声が浴びせかけられた。
「ちょっと、無帽物は乗らないでちょうだい」
「そうだ、そうだ、非常識なやつめ」
騒ぎに、駅員が駆け寄って来た。
「お客様、申し訳ないのですが、お帽子がなくてはご乗車していただくわけには」
「被ってたんだ。今の突風で飛ばされて」
押し問答が続く中、後ろからポンポンと肩を叩かれた。振り返るとベンチにいた中年男性が、俺の手に何かを押し付けた。新聞紙で折ったカブト帽だった。
「皆さん。落ち着いてください。これを被ればいいでしょう」 穏やかな声だった。
「そんな新聞紙の帽子なんて」
女はまだ食って掛かってくる。
「でも、あなたの被っているお帽子も布地のお手製ですよね。あちらの方のは、和紙製だし。私は医者ですが、今はまだこの病気に対して何が有効で何が無効なのか、はっきりわかってないのです。帽子だってただの気休めかもしれません。逆に新聞紙のインクの殺菌力が効果的な可能性だってある。まあ、そう神経質にならずに、皆で助け合って乗り越えましょうよ」
「でも……」
「それとも何ですか、この病気は命だけでなく、人の心も奪うのですかな」
その言葉に、皆が黙り込んだ。
「さ、それを被って早くお乗りなさい」
俺はカブトを被り、あわてて電車に乗り込んだ。改めてお礼を言おうとすると、小学生ぐらいの子供と手を繋いで、ホームを降りていく男性の背中が見えた。
--そうか、お迎えだったのか。
俺は、見えなくなった二つの菅笠に深々とお辞儀をした。終
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時事問題を背景に、マスクを帽子に置き換えて書いてみました。