20代男性の46%が「女性と交際経験なし」と、こんな数字に驚いた。女性も26.0%となっているが、どういう事情か、理由があるのか皆目見当がつかない。そういえば不倫苦悩中の37歳女が「若い男に興味がない」といっていたが、魅力のないダメ中年を除けばその年齢で男を漁れば既婚者に目がいくのも当然かもしれない。それにしても、妻子持ちの男との恋が終わって「失恋した」というものなのか?恋が終われば失恋にはちがいないが、それとも先行きのない男との成就を目論んでいるのだろうか?

こんなでは若い男に出番は回ってこない。それが交際経験ナシ46%の要因か?まあ、交際経験がなくともソープや立ちんぼ相手に童貞を捨てることはできようが、交際経験ナシの女は処女ということか?それもなかろう。今どきの女が行きづり男と性欲を満たすなど当たり前のようになされている。そんなではまともな交際なんかできるものではない。牛のクソにも段々があるように、人間関係も同じことだ。そういう轍を踏まない即物志向なら、恋愛晩生(おくて)になるのも無理もないように思われる。

 



恋愛に性はつきものだが、性に恋愛は必要ない。自分の欲望を満たすことができればそれを幸福といっていいが、性欲の発散には恋愛という充足感がまるでない。言葉は悪いが我慢を重ねていた時の排便の快感のようなもので、出せばスッキリで終わる。石原慎太郎の短編小説『太陽の季節』は、昭和30年に「文学界」に掲載された。裕福家庭に育った若者のあまりに無軌道な性生活が、感情を物質化する新世代を描いた点において、発表されるや文壇のみならず一般社会にも賞賛と非難の渦を巻き起こす。

『太陽の季節』は芥川賞を受賞したが、選考委員の評価は必ずしも高いとは言えず、反倫理的な内容に評価が分かれた。作品にみなぎる若々しい情熱が評価され激賞される一方、賛成派からも文章の稚拙さや誤字があるなど多くの欠点が指摘されている。賛成派の伊藤整はこう述べている。「いやらしいもの、ばかばかしいもの、好きになれないものでありながら、それを読ませる力を持っている人は、後に伸びる」。伊藤は『太陽の季節』が単行本化された翌年、「男と女の愛情」の表題で寄稿している。

その冒頭、「恋愛というものは、人間の両性の間に営まれる。もっとも美しく、かつ難しい愛の行為である、と考えられている。しかし、もっと冷酷な見方をすれば、恋愛は、人種の保存という超個人的な大目的のために、人間の両性を結びつけ、やみがたい執着と性の衝動に駆り立て、個人としての男や女を熱狂させるところの、残酷な自然のカラクリであるということもできるだろう」。それほど読解力を必要としない平易な文体であるが、伊藤は「恋愛は自然の設けた策略に見える」といっている。

舟橋聖一は「この作品が私をとらえたのは、達者だとか手法が映画的だとかいうことではなく、一番純粋な<快楽>と素直に真っ正面から取り組んでいる点だった」とし、「彼の描く<快楽>は、戦後の<無頼>とは、異質のものだ」と評している。反対派の吉田健一は、「体格は立派だが頭は痴呆の青年の生態を胸くそが悪くなるほど克明に描写した作品」と酷評した。平野謙は、「私などの老書生にはこういう世界を批評する資格がない」とさじを投げている。選考委員ではない三島由紀夫の慧眼が鋭い。

 

 

三島は『太陽の季節』発表5年後に本格的な解説のなかでこう述べている。「あらためて読み返すと、多くのスキャンダルを捲き起した作品にもかかわらず、<純潔な少年小説>、<古典的な恋愛小説>としてしか読めないことに驚いたとし、『太陽の季節』の性的無恥は、別の羞恥心にとつて代られ、その徹底したフランクネスは別の虚栄心にとつて代られ、その悪行は別の正義感にとつて代られ、一つの価値の破壊は別の価値の肯定に終つている。」フランクネスとは態度や発言が正直・率直であること。

ともすれば我々は自然本能の命ずるままに異性を求めているのだろう。両性のあいだに営まれぬ恋愛もあるが、それは伊藤のいう「人種の保存という超個人的な大目的」には至らない。それにしても伊藤は「種族保存本能」をなぜに超個人的な大目的というのだろうか。おそらくは封建時代から受け継がれた「女は子どもを産む道具」という概念を指摘しているのではないか。伊藤は、恋愛はそのためにあるのではなく、人間の生きる上においての最大かつ意義といっていい重大な精神の問題といっている。

 

   

「性は種族保存のためにある」という時代錯誤の方便は、われわれの時代の純潔教育においても用いられたが、そんなものがまやかしであるのは高校生くらいになれば誰でも分かること。性の衝動をむやみに放出させないという倫理観・道徳観が戦後の民主主義制度導入によって損なわれていく。石原の『太陽の季節』は、旧態依然として残る人間の虚像という化けの皮を剥がしたに過ぎない。坂口安吾の『堕落論』も人間の真実を暴いたが、石原は安吾のエッセーを小説にし、若者の無軌道を賞賛した。

すべての事物には建前と本音があり、社会はそれで成り立っている。大人の御都合主義に辟易した石原は23歳の一橋大学在学中に『太陽の季節』を書いた。何はともあれ、いつの時代においても社会を変えるのは若者である。子どもに「赤ちゃんはどうしてできるの?」「どこから生まれるの」と聞かれてあわてふためくように、大人は都合のいいことを棚に上げて子どもに向き合わない。アメリカの母親が「彼氏とデートに行ってくる」という娘に「スキンを忘れないようにね」とあっけらかんという。

 



当時においても先進的な若き女性のあいだで以下の議論がなされていた。「おとな連中は、いかにも太陽族の行為を汚がって見せるけれども、御本人たちはどうなんですか?平気で売春婦を買ってきたし、現に今でも買ってるじゃありません?愛情とか結婚の責任とかの観念を抜きにして、その場その時の性関係を楽しんだという点では、どちらも同じことです。若者がダメで大人はよいというどういう理由があるんでしょう。少なくとも太陽族の行為とは合意の結果です。強姦でも金銭でもありません。

自分は不倫を否定する道徳観など持ってはない。誰が誰を愛そうとも、その愛そのものに罪はない。「既婚男性と恋愛するなんて、相手の妻子のことも考えない自分間てな非常識な行為」と攻め立てるおばさんもいよう。既婚男の家庭が破綻していようが、円満であろうが、既婚男が若い女性に魅力を感じるのは自制心の問題であり、独身女性の自制心の問題である。ないなら始めようし、あればあったで始まらない。いずれも個人の問題で、他人が自身の価値基準を押しつけて道徳家ぶることではない。

道徳に対する考え方の根本的な問題である。封建時代の性道徳は、自由恋愛を不道徳としたが、伊藤野枝が『婦人公論』誌上で「自由意思による結婚の破滅」を書いている。彼女はその冒頭で「破滅ということは否定ではない。否定の理由にもならない」と書いている。自由であろうが破滅はあるし、不自由というのは最初から破滅していることだから、ことさら破滅という必要はない。めいめいがめいめいの人生をめいめいの好きなように生きることが、人がこの世に生まれてきた意義ではなかろうか。