自民党派閥の政治資金パーティーを巡る裏金疑惑は、岸内閣の安倍派大臣更迭や辞任に及んでいるが、安倍派の宮沢博行防衛副大臣が13日、昨年までの3年間に派閥側から140万円の還流を受け、政治資金収支報告書には記載していなかったと述べたが、宮沢氏は「記載しないでいい」と指示があったと派閥主導の「裏金化」を明らかにした。また、問題発覚後に派閥から「しゃべるな」と指示されたことも明かした。政治資金パーティー収入の裏金問題のスクープは、12月1日朝日新聞朝刊が報じた。

自民党5派閥が開いた政治資金パーティーを巡って朝日新聞は、安倍派が所属議員が販売ノルマを超えて集めた分の収入を裏金として、議員側にキックバックする運用を組織的に続けてきた疑いがあるとした。安倍派は2018~2022年に毎年1回パーティーを開き、計6億5884万円の収入を政治資金収支報告書に記載しているが、収入・支出のいずれにも記載していない裏金の総額は直近5年間で1億円を超えるとされ、共同通信は、実際のパーティー収入は少なくとも8億円前後に膨らむ可能性があると報じた。

 



企業献金禁止を受けて各党には助成金という形で税金が投入されているにもかかわらず、パーティーは献金ではないなどとして金集めに奔走する政治家の腐った根性に付けるクスリはないが、名目だけ変えれば済んでしまうという形式主義の日本の盲点を突かれた格好だ。女子高生が「売春なんかしていない。援助交際だから」といってるのと何ら変わりがない。本質をないがしろにして形式主義に走れば、どんな理屈も赦されてしまう。政治家の甘えは「みんなで渡ろう横断歩道」ということになる。

みんなでやれば「やましい」ことも赦されるなどは西欧の罪の文化には当てはまらないが、日本人の美徳とされた恥の文化はどこに消えたのだろう。今から百年と少し前、日本に熱烈な恋をしたシドモアという紀行作家がいた。彼女はワシントンに日本の桜を植樹したことでも知られるが、後に自国アメリカに日本人移民政策に反対してスイスに亡命し、生涯母国の地を踏むことはなかった。シドモアは「日本の心」に魅せられながら綴った『日本紀行』の最後のところで、以下のように述べている。

 

         

「日本人は今世紀最大の謎であり、最も不可解で矛盾に満ちた民族です。日本人の外見と環境は、一瞬、気取り屋の国民にみえるほど絵のように美しく、芝居じみ、かつ芸術的です」(以下略)。シドモアは日本人の民族性について「普遍化することも要約することも不可能」といいながら、その「謎と不可解と矛盾」について彼女なりに考察した。それから約半世紀がたち、アメリカの文化人類学者ベネディクトは、シドモアの「謎と不可解と矛盾」の糸の絡まりを学者の立場でほぐして見せたのだった。

ベネディクトは自著『菊と刀』のなかで、「日本人には西洋人のような行為の絶対基準がなく、行為の基準は自分のおかれた状況に応じて使い分けられ、あるいは状況の変化に応じて絶えず変化していくもの」と指摘した。そのため、同じ人物の行為が一貫せず矛盾しているようにみえるが、それは実際的な個々の状況に対応する行為の基準が柔軟に設定されているためであり、決して行為の基準を無たぬものでは無いと理解を示す。「柔軟に設定」といえば聞こえはいいが「曖昧」と言い換えられよう。

 

    

政治資金規正法は企業の献金を禁じているが、パーティー券の購入は献金に当たらないというのは、子ども騙しも甚だしい。何の名目でのパーティーなのかという本質を考えれば分かりそうなものだが、規制に該当しなければセーフというザル法である。12月5日、自民党の派閥の政治資金パーティーをめぐる問題を受けて、共産党は、企業や団体によるパーティー券の購入や政治献金を全面的に禁止することなどを盛り込んだ政治資金規正法の改正案を国会に提出したが、罰則も強化されている。

ベネディクトの指摘する「恥の文化」の要点は、行為の善し悪し、外側である世間から是認されたり、制裁を受けたりすることによって決まるが、西洋の「罪の文化」では、行為の善し悪しは、内面の心に宿る罪の自覚によって決まる。したがって、西洋社会にあっては、倫理の絶対基準を説いて人々の罪の自覚に訴えていくことによって良心が啓発されて行くが、日本の社会においては、「そんなことをしたら世間の笑い者になる」という状況的な外圧に基づいて、善行が導きだされるという理解になる。

 



しかしながら日本人識者によって指摘されているのは、罪の意識こそ外側からの罰という強制力によって生み出されるものであって、恥の意識とは、内側で我が身を恥じる倫理意識なのだと、まったく正反対にいうことも可能となる。政治家が政治資金パーティーで裏金を作ることは倫理的に間違っていようとも、与えられたパーティー券のノルマ以上の達成分は「努力に免じた報酬」という形でポケットに収めていいということになっており、政党からも記載の必要なしという形で裏金ということになる。

自民党安倍派は長らく政権与党の中枢にいたことで美味い汁を吸ってきた。死者に鞭打つ事を誰もいわないが、これだけ悪どいことをやってきた安倍元総理については、口には出さぬまでも「天網恢恢祖にして漏らさず」の気持ちは想像に及んでいる。子どもの頃から「悪いことしたらお天道さまがみていて罰があたる」と信じてきたが、何らお咎めなしに悪い奴ほどのうのうと生きているように思えたりもあったが、今回の安倍元総理殺害事件に触れ、「権力は腐敗する」という言葉を改めて確信した。

 



コメンテーターで元NHK解説委員の岩田明子は社会学者の古市憲寿から今回の不記載問題について「政治家の中では、どれぐらい横行している話なのかちょっとわからなくて」とし「実際、政治家にとってどれぐらい当たり前で、逆に岩田さんのような政治記者みたいな人はどれぐらい知っていた話なんですか?」と聞かれ、以下のの説明した。「よく聞かれるんですけど、政治部と社会部とで縦割りですから政治部の人間は政策とか政局とかを追うけど、収支報告などのお金の話は社会部マターです。」

これは大学の「国語表現論」にもいえ、社会部と文学部には以下の違いがある。文学部の表現論は、文学作品の表現効果についての研究考察が主となり、文学を成り立たせる語句の秘密を問うのが一般的だ。彫刻家ロダンに「形態の下に透いて見える内部の真実」という言葉があるが、こうした追及に重点が置かれている。こういう文学部の表現論が、社会部でも有効であるかどうかについてだが、社会部の表現論とは、作品を対象として扱うのではなく、表現主体として実践することの方に意義を求める。

実際に書く作業をとおして自己の内部の可能性を現象化する時間と考えられる。各人というのはまさに一つの魂であり、何か言うべきことを持つはずだからである。したがって、自己の内面を言葉の上に展開することにより、自分自身に対しても、また他者に対しても、新な光を加えることができよう。一つの文章を批評することも、文章に積極的に取り組む姿勢として大事なことだ。新聞のごくありふれた記事も書き写すと意外な発見に気づくこともあるように、読んでわからぬ文章は書き写すのがよい。