常々思うことの一つに「人間は言行不一致な動物であること」。これを疑うすべはない。理由は簡単で、言葉をもつからである。犬にしろ、猫にしろ、馬にしろ、言行不一致などという言葉は絶対に当てはまらない。もし、犬が心にあることと違う行動をしたところで、言行不一致といわない。馬の気持ちが分かる人がいて、ある日その馬が「ひひーん」といいながらある行動をした。馬の気持ちの分かる人が「この馬の行動は、ひひーんとは別の行為だった」などといったなら、それは凄い。凄すぎる。

「ひひーん」は鳴き声で言葉ではないが、馬的には言行不一致なのだろう。犬もそうで、怒っている時に吠える声は怒りに満ちている。怒っている時に甘えた声で吠える犬は歪な人格(犬格)の持ち主だろう。おそらくいないと思う。彼らは正直に感情を表すから。人間だけが「心にもないことをいい」「心にあることをいわない」それは何故かを、人間なら誰もが分っている。「言葉は考えを隠すためにあたえられた」というが、「言葉は考えを隠すためにあたえられるように変わった」というのが正しい。

 



人は人に自分の意思や考えを伝える道具として言葉を発明したのであって、自分の考えを伝えなかったり隠したりする必要性から言葉を生み出したのではない。神父マラグリダの上の言葉は嘆きを述べている。「いやよ、いやよもいいのうちだ。真に受けたらダメ」と教えてくれた先輩もいたが、いやでないことを「いい」といえないのが女性の自尊心で、虚栄心ともいえる。男は女性にとっての性の共犯者であって、共犯でなければ罪の一切は女性に委ねられることになり、女性にとっていたたまれない。

「あのとき、あなたが強引だったから」というけれど、強引でなかったらどうだったのか?罪を男に背負わせようとするも内心は共犯の自覚を持っている。古来から男と女の関係は、女は相手を責めてなんぼ、男は責められてなんぼの世界で成り立っている。その原点は『古事記』の伊邪那美、伊邪那岐に起因する。女の裸を未だみたこともない伊邪那岐は伊邪那美に問う。「お前のカラダはどうなっているのか?」伊邪那美は答える。「私のカラダは程よくできていますが、一ヵ所だけ欠けているのです」

「そうか。俺のカラダはその逆に一ヵ所だけ余分なところがある。それをお前の欠けているところに差し入れて国を生もうと思うが、どうだろうか?」という伊邪那岐に対し「それは善いことでございます」と伊邪那美は応える。とまあ、奥ゆかしい会話の二人だが、古事記は一体だれが書いたのか?歴史を紐解くと711年9月、元明天皇は太安万侶に『古事記』の編纂を命じる。安万侶は類い希なる文才によって、上中下巻からなる『古事記』をわずか4ヶ月で完成させ、712年1月に元明天皇に献上した。 

末尾には和銅5年(712年)1月28日に献上と書かれており、養老4年(720年)になった『日本書記』より8年古い。『古事記』以前に、聖徳太子と蘇我馬子が編んだ「天皇記」「国記」「本記」などの史書があったと『日本書記』は伝えているが、これらの史書は蘇我氏滅亡の折に焼け、書巻そのものは伝わっていない。よって『古事記』が現存する文献・史書の最古となるが、異論もないわけではない。それはさておき『古事記』が史書であるか、文学書なのか、あるいは神典なのかについても諸説ある。

 



と、『古事記』はこれくらいに「学ぶとは変わること」の表題に戻す。この言葉は林竹二の著書『田中正造の生涯』のなかにこう記されている。「私はかつて、田中正造のような人においては、一つの事を学ぶということは、その事において自分が新たに造られることだと書いたことがある。学ぶということは、田中正造の師友新井奥邃(おうすい)の理解に従えば、自己を新たにすること、即ち、旧情旧我を確実に自己の内に滅ぼしつくす事業であった」。林竹二は教育学者でプラトンについての論文がある。

古い世代の教職員にとって林竹二の著作・文献はは灰谷健次郎と共に欠かせない人物である。林竹二は相手に遠慮することなく思うところを率直に述べる人で、ある陸軍元少佐とこういうやり取りをしている。彼らは命を賭して戦ったという誇りだけは軍人として持っているが戦争は終わったのだ。維新になって旧幕臣が帯刀を禁じられたように、旧軍人は新たな考えをもたねばならないが、そうはいっても未だ戦時の思い冷めあらぬ終戦三カ月後のやり取りである。林は旧軍人にこのようにいっている。

 

      

「たしかに、あなた方は生命を投げ出した。しかし、軍人はとにかく武器に頼るように出来上がっている。武器で敵を打ち負かせると確信しているように、武器で自分の国民を引きずっていけるものと信じていた。そうではありませんか?」。元軍人は自身の経験として林の話に頷くことはできなかったが、言ってることは正しいと思っていた。こういう時に持ち上がるのが立場というもの。議論していて、相手に言い負かされそうになった相手が、正しい・正しくないとは別に、立場を出してくる。

「あなたの言ってることが正しいとしても、自分としての立場というものがある以上、納得するわけにはいかない」。これは正しいことなのか?善悪良否が立場で変わっていいものなのか?ジャニー氏の蛮行を気づきながら、マスコミが沈黙したのもジャニーズタレントがもたらす視聴率である。臭いものに蓋をすれば恩恵に預かれるということだが、結果的に悪をのさばらせることになった。日本人には西洋人のような行為の絶対基準がなく、行為の基準は自分のおかれた状況に応じて使い分けられる。

 



そのため、同じ人物の行為が一貫せず矛盾しているよう見受けられることが多い。これは『菊と刀』の執筆者ベネディクトも指摘している。が、別の見方をするなら、それらは実際的な個々の状況に対応する行為の基準が、柔軟に設定されているに過ぎず、決して行為の基準をもたないためではないという理解もなされよう。ジャニーズ問題のようなあきらかな児童虐待であれ、その行為の善し悪しが外側による世間から是認されたり、社会的制裁を受けることによって決まるのを「恥の文化」という。

西洋のような「罪の文化」では、行為の善し悪しは人間の内側の心に宿る罪の自覚によって決まる。そこで西洋の社会では、倫理の絶対基準を説いて人々の罪の自覚に訴えていくことで良心が啓発され、そんなことをしたなら世間の笑い者になるという状況的な外圧に基づいて、善行が導き出される。したがって、日本的な自己は、西洋的なアイデンティティという自己決定的な自己ではなく、共同社会の外圧に従ってその都度決定される自己でもなく、環境変化に応じて作っていく自己といえるだろう。