人間は死ぬべき存在でありながら、死を縁遠いものとして日々を暮らしている。不治の病に罹患して、余命を宣告されない限り人は執着するところの不死を空想するものだ。死にたくないし、死ぬのは嫌だと人はその病床で死んでも死にきれないものを抱いて生きている。末期がんのあるブロガーが「死ぬのかこのオレが」と記していた。死を予測はするのだろうが、どういう予測をしているのか、こちらには伝わらない。ならば、本人は死をどう予測をし、いずれ訪れる死の計画を立てているのだろう。

いずれといっても数か月の余命を告知されているのだった。死刑囚が獄舎のなかで毎日朝を迎える心理状態に近いものがあるように思うがどうなのだろう。ふと考えてみたことがある。人間はなぜ幽霊を発明したのだろう。円山応挙の幽霊画は有名だが、応挙の描く幽霊は生きた人間の素顔の様だ。幽霊と分かるのは白い死装束に脚がないこと。これがどうやらおぼろげとしての幽霊の特徴なのかも知れない。死んだ人間はしかと大地に立つが脚のない幽霊にはそれがなく、浮遊しているように感じる。

 

   

応挙が幽霊に脚を描かなかったのはそういうことかと、独断的な想像をしてみた。外国にも幽霊(ゴースト)らしきものはいる。ゾンビとかドラキュラや精霊などは日本の幽霊と趣はちがうが幽霊といえる。日本の幽霊との最大の違いは脚があること。ディンケズの『クリスマス・キャロル』に以下の描写がある。「精霊(ゴースト)は足下(あしもと)の墓石を指さしたきり身じろぎもしなかった」。足下(あしもと)といっているから足があるにちがいない。あるので「ぼーっ」という存在でなく動き回っている。

画家が人間の顔に興味を抱くのは、欲望がもたらせた強烈な変形作用をそこに発見するのだろう。これは運命の発見といってもいいし、生まれながら変形しない顔などない。人の顔にはその人の生き様・運命が作られている。同じように、幽霊の顔にも幽霊の運命が刻まれている。「百鬼夜行」の意味は「多くの人間があやしいおこないをしているさま」をいうが、これは鬼や妖怪・化け物が徘徊することから転じた言葉。北斎は化け物を描く名手だったのは、人間のあらゆる姿態と表情を追求したからだ。

それらは冷徹なリアリズムの所産であり、空想家は化け物を描くことはできない。日本の幽霊には女性が多い。その理由は相手に対する執着が、死してなお怨念という形でまとわりつく。『四谷怪談』の岩は民谷伊右衛門に、『番長皿屋敷』のお菊は、奉公先の皿を割ったことを咎められたことで当主の青山播磨守主膳への恨みつらみである。『牡丹灯篭』のお露は恨みではなく、生前恋焦がれていた新三郎への思いが癒えず、現生への未練が立ち消えず成仏できなかった。この三つを三大怪談話という。

人間を幽霊たらしめるものは執着で、執着の存するところには嫉妬がある。『四谷怪談』の岩は自分を亡き者にして他の女と祝言をあげた夫の伊右衛門を許せなかった。「怒りゃすねるし叩けば泣くし殺してしまえば化けてでる」のが女といわわれるように、「弱き者=女」の産物であるが、こんにち殺されて化けて出たいのは男の方かも知れない。「生きる」ことも執着することだろう。と、同時にこれが人間の心の迷いの根源でもある。仏教も一切の執着から離れよと説く。欲望を捨てるよう説く。

 

  

しかし、それらを徹底的に実行せんとするなら人は生きてはゆけまい。一切の執着から離れるなど人間には不可能である。なぜに宗教は「生」のただなかに「死」を求めようとするのか。それでこそ人間といえるだろう。もし、人間に可能なことだけを説いていたら、人間はそうした可能なことを「可能である」という理由のもとに実行しないだろう。「不可能」ゆえに挑戦するように、人間には「不可能」なことが必要である。険しい山に向かって帰らぬ人となれども、そおれが人間の証明である。

上記したように、人間は死ぬ存在であるがゆえに、死んでもこの世に現れる幽霊を発明したのだろう。それはそれで面白いからではないか。死んだ者が生き返るというのは現実味はないが、幽霊となって現れるというのはある種のロマンである。幽霊の常套句は「うらめしや~」で、子どもの頃は意味が分からなかった。「恨む」相手に「うらめしや~」というのは「恨んでいます」という意味で、恨みを持ったまま死んでしまっては「恨み」に気づかない。だからそれをいうために幽霊になって現れる。

相手も死んで何もないと安心していたところに「うらめしや~」をいいに来るなど困ったものだ。民谷伊右衛門は執拗なる岩の攻撃に半狂乱となる。これこそが幽霊の怖さであろう。夢でうなされ、寝汗をびっしょりかく人は「怖い夢を見た」という。悪いことをすれば必ずやむくいがあるという仏教の因果応報が幽霊にはしのばれているのかも知れない。子どもの頃はネコを殺すと祟る、化けで出るなどを信じていたのも「化け猫屋敷」の映画の影響もあったろうが、日本の各地には化け猫伝説がある。

有名なのが佐賀県の「鍋島の化け猫騒動」が有名である。ネコが妖怪視されたのは、夜行性で眼が光り、時刻によって瞳(虹彩)の形が変わり、暗闇で背中を撫でれば静電気で光る、血を舐めることもある、足音を立てずに歩く、温厚と思えば野性的な面を見せることもあり、犬と違って行動を制御しがたい。さらには、爪の鋭さ、身軽さや敏捷性といった性質に由来すると考えられている。また、化け猫の俗信として「行灯の油を舐める」というものがあり、映画ではそのシーンが気持ち悪かった。

 



人の寿命は予測できない。だからいいのかも知れない。自分の寿命が分単位で決められていたなら、D・day(Die day) が迫りくる状況に人の精神は狂ってしまうのでは?その前日には考え込んで、一睡もできないのでは?何を考えるというより、神経が苛立って眠るどころではない。人は自身の死期を知らぬ方が幸せである。同じように、物事は分からないからいいのであって、すべてが見通せて何のいいことがあろう。人は人を分からないから興味を抱く。この世の分らぬものの際たるものは異性である。

種々の占いで自分の将来や運命を知るのはお遊びで、ある占い師が「あなたは20年後に大金を得る」といったが20年後に何も起こらなかったとしてその占い師を責めるものはいない。予測は予知ではないからだ。「予知」とは「何が起こるかを前もって知ること」、「予測」とは「ことの成り行きや結果を前もって推し量ること」だから「予測」のほうが不確実性が大きい。人間の未来予測はお遊びで、それでも商売として成り立つのは遠き未来だからで、明日や一週間後、一か月後の予測は誰もしない。

 

「迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日」とされた『ノストラダムスの大予言』を騒ぎたてたのは、一部の浮かれた人間たちだった。当事者ミシェル・ノストラダムスは1503年生まれで1566年に没したフランスの医師、占星術師、詩人。彼がそのことを暗示したとしてもおとがめはなく、印税で稼いだのはこんにちの出版社。仏陀の生まれ変わりといった大川隆法は世を去った。天草四郎の生まれ変わりと豪語した美輪明宏も、嘘だったと封印した。人間はその目的のために嘘をつくようにできている。