自分は生まれついての人間であり、人間であることの特別な意識はない。ネコがネコを、ウシがウシを意識しないようにだが、人間についてごく自然に、あたりまえに語ることは案外むつかしい。例えば性の問題をとっても、抑制しすぎるか、さもなくば誇張するか、人の話もまちまちだ。性の問題はすこし前まで禁圧と世情によって自制されていたが、インターネットの普及によって何もかもが垂れ流しとなり、そうなってしまうともはや収拾がつかなくなった。かつて「白ポスト」というのがあった。

子どもや児童に見せてはならない大人の猥書を捨てるためのものだったが、今となっては存在自体が笑い話に近い。子どもに性画像・性映像を抑止することはできない時世であり、性の氾濫がもたらせたものは少なくない。15歳の少女と30歳、40歳、さらには50男が普通に出会っている。お茶を飲んだり食事をするという出会いでないことはいうまでもない。かつては抑制されていた性がその露骨さと濫用性から、本来的な在るがままの姿になっている。児童福祉法ではおさまらない法規制が必要となる。

 



性に限ったことではない。ネットの普及によって自己顕示欲の強い人間が、アレコレ語りたくてしかたがないのか、論客という肩書で英雄視されている。ブログを書き綴るブロガーも同じかも知れぬが、何かを書くという知的作業は脳の修練となることから、自分は知的ストレッチと考えている。知識のインプットは、アウトプットを前提になされるべきであり、それも含めて知的生産の分野となるが、アウトプット力を磨いてゆくことで、わざわざ情報をとりにいかずとも、重要な情報は得られるものだ。

さらにいえば書く行為は「考える」を土台になされる。「書く」行為のなかに調べるというのが不可欠だからだろう。司馬遼太郎は印税のほとんどを貴重な資料の購入に充てたという。書くことは調べること、調べることは考えることであって、そうした想像力から創造が生まれる。ぼんやりとした疑問に輪郭をもたせることも、書くことの醍醐味と思っているので、ミクシイやツイッター(X)、フェイスブックなどの他人とコミュニケーションをとる短文構成のSNSは主旨が違うのでやらない・興味もない。

知的作業とは考えることであり、自ら考えるために書いている。アウトプットの本質は何か?と問われるなら、「説得力」と答えたい。他人を説得させるためにまずは自身が納得しなければならない。自分は若いころから、他人を造作なく説得するのは好きではなかった。というのも、説得されたようで実はそのフリをしていることが多く、相手から強引な説得をされることはなかったし、反論も面倒なので説得されたフリでお茶を濁すことも多かった。大事なことは、説得ではなく納得することだろう。

説得する話術ではなく相手を納得させる話術というものを重要視した。説得は強引さを有するが納得は押し付けにはならず、どちらが大事かは言うまでもない。他人を納得させる前に自らを納得させねばならない。そのためには多角的な視点と清濁併せ呑むという観点も必要となる。善は善のみにあらず、悪は悪のみにあらず、善は悪を悪は善を共有する。世の中には「これは絶対に善」「これは絶対に悪」というものがあるだろうか?だからか、絶対善を標榜する「神」という概念を自分は好まなかった。

 



宗教心にはいささかも自ら断定するものなど無い。人間という愚かな生き物は、神に従っていれば間違いないというのが一神教の基本である。愚かであろうが間違いを起こそうが、人間として生まれた以上、人間として自発的に自らを高める手段はあるはずだ。神に従うのが手っ取り早い方法だろうが、遠回りの良さもある。人間は罪を犯す可能性そのものである。すべての嫉妬心は殺意を秘めており、すべての情欲は目で相手を犯しているのだ。それを外部にあらわさないというのは罪なきものなのか。

男がふらりと街にでれば、一体何人の女性を視姦していることになるだろうか。それほどに人間は心に罪を負っている。失恋した無学な女が海辺を彷徨っていたとする。無学な女であるにもかかわらず、彼女は思想家としての心を携えている。なぜなら、生死について「思いつめる」ということは、思想の形成なしに行えない。世間は学問や教養を身につけた人を讃美するが、「自分は無学だ」と自覚している人を思想家といっていい。すぐれた著作というもののどこかには人間の純粋な無学が潜んでいる。

 



吉川英治の言葉を思い起こす。「私は学歴もなく、地道に独学でやってきた。座右の銘というのではないが、『われ以外皆師なり』と思っている」。さまざまな仕事をしながら人は生きている。職業に貴賤はないが、どんな仕事を通してであれ、人は前向きな気持ちでいれば自らを向上させることは可能である。われわれはみんな非凡であろうとして、自分に無理を強いている。独創的であろうとして、自らを飾り立てている。小心者の特徴は平凡さを怖れることにある。つま立つ必要などなかろうに。

高みに憧れるのはいいが、その事ばかりに心を奪われ、あたりまえのことに注意をはらわない現代人の不幸さか。日常生活とは平凡きわまるものなのに、刺激への絶え間ない欲求が人の背伸びを煽っている。死について考えたことがあるが、人の死は決して異常なことではない。命あるものの終焉は千古からの鉄則であり、平凡で自然なことなのだが、人は死を恐怖し狼狽するのだろうか。ならば、生きていることが異常と考えたらどうだろうか。死は人間の究極的な目的であると考えたらどうであろうか。

 



「文明とは新たな恐怖の創造である」という概念について考えた。原爆や水爆に匹敵する大量殺戮兵器における殺人の残酷さは、文明に比例している。となると、文明人とは新しい型の野蛮人ということになりはしないか。ウクライナやガザで毎日多くの人が死んでいるが、人が人を殺して何が満たされるのか?万人が平和を求めているにもかかわらず、人間は興奮と刺激を求めて止まない。人が何に興奮するのか?建物の瓦解と殺人である。子どものころに、ゴジラが建物を破壊するのに興奮を覚えた。

人間は文明都市を造ったが、都市崩壊の刺激を味わいたいという矛盾をもつ。造り物で飽き足らずか、ミサイルや砲弾で都市破壊を行っている。大友克洋の『AKIRA』は、地球崩壊後、再び建設を始めた都市・東京を舞台に描かれている。多くの破壊は政治的扇動と宗教的狂信によって行なわれているが、唯一の救いは核兵器を使用していないこと。それだけは、唯一人間の優秀な頭脳のたまものだろうか。人間の歴史とは人の殺戮と自然との格闘だが、人間の生存に欠くことのできない場所がある。

 

それは建物やねぐらでなく泉や井戸である。砂漠のオアシスが人に活力を与えるようにだ。それを分かっていながら人の生きる糧を破壊し、命を絶とうとする。それが戦争だ。あくなき崩壊と蘇生を繰り返しながらも人間の基本は蘇生である。日本で生まれたゴジラが世界で人気となっている。着ぐるみのゴジラに比べてハリウッド版は派手さはあるものの、日本のゴジラは自然の驚異として描かれた点において思想的である。CGによる特撮は何でも作り出すが、あれが果たして思想的といえるのか?