二人の離婚は当然と思う。信頼を失った人間同士が同じ屋根の下で顔を合わせていられるはずがない。広末の不倫が発覚した理由についてネットの情報によると、キャンドル氏による妻のライン(携帯)盗み見であるという。これはキャンドル氏自らが記者会見の席で「彼女のそういうLINEを見て相手を確認し、彼女に分からないように相手の所に行って、決着をつけた」「示談した」と明かしている。配偶者の携帯を盗み見して素行が分かったとしても、夫のそういう行為に妻は信頼を失うだろう。

その前に妻の浮気を知った夫は妻への信頼を失うが、その事実をどのように感じ、どういう対応をとるかは夫の性格にもよるだろう。配偶者の浮気の事実を知ったとき、妻は夫を、夫は妻の不貞を責めるのは当然と思われる。結婚は互いの貞操を守るという契約に成り立っているからだ。にもかかわらず、浮気相手を責めるのも人間だ。こういう比喩を聞いたことがある。「自分の食べたい(食べている)魚を取ったら、取った人を責めるが魚は責めない。美味しそうだから自分の手元に置いたのだ」。

 



ロジックとして明解なようで屁理屈はなはだしい。なぜなら、言葉も話せない、意思もない、死んで皿の上に乗っかった魚と人間を比べること自体アホくさい。横取りした相手が悪いのは皿の上の魚で、横取りされた人間に罪がないなどあり得ない。横取りを望んでいたと考えるのが妥当で、それこそが人間関係であって、強引に横取りするのはレイプという犯罪行為。それにしても他人の携帯を盗み見するのは許されない。それで浮気が分かったと正当化したようにいうが、何もなかったらどうなんだ?

ということは、相手の不貞が分かったからといって盗み見が正当化されるわけではない。してはいけないことはいかなる理由においてもしてはならない。他人の携帯をチェックする女がこんなことを言い返した。「見られて困ることをしていなければ見られてもいいんじゃない?」自分はその女にいった。「見られて困る・困らないとか都合のよい詭弁をいうんじゃない。見る行為そのことがモラルに反している。そういう基本的なことが分からない人間は、愚かでバカという以外のなにものでなかろう?」

たとえは悪いが、道の真ん中で洋服脱いで裸になり『相手が喜ぶからいいんじゃない?』というのと同じで相手が喜ぶからいいなどと、都合のよいことをいうんじゃない」と、夫の携帯チェックする娘にいったが聞かなかった。夫は「別にいいです」という。妻を教育する甲斐性なき腰抜け男なら、女はのさばりミソもクソもゴッタにしてしまう。自分の母は自分宛に来た女性からの手紙類を勝手に開封するばかりか、ゴミ箱に捨てていた。父がそれとなく「〇〇から手紙がきていた」と知らせてくれた。

「信書開封罪」(刑法第133条)というのがある。「正当な理由がないのに封をしてある信書を開けた者は、1年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する」と規定しているが、親告罪なので子が親を告訴しなければ咎めるすべはない。該当する可能性があるものとしては携帯電話やスマホに届いたメールやLINEを盗み見行為が「信書開封罪」にあたるかどうかという問題だ。この点について、刑法第133条にいう「信書」とはなに?「特定の人から特定の人にあてられた意思の伝達を媒介する文書」をいう。

 



してこの信書が、「封をしてある」ものであることが信書開封罪の要件となっている。これに対して携帯電話やスマホに届いたメールやLINEは、封をしているわけではない。よって、携帯電話やスマホに届いたメールやLINEを勝手に盗み見たとしても、この信書開封罪には該当しないということになるが、あくまでも現時点における刑法の規定によるもので、今後刑法が改正された場合には処罰の対象になる可能性もあろう。巷では夫や妻の携帯電話のメールやLINEを盗み見する人は多いのではないか。

それで相手の不貞(裏切り)を知る。固定電話時代には不審を抱いた側が探偵事務所(興信所)に依頼することを思えば具体的で安上がりだ。どちらにしても、そういうことをされた配偶者とはもうはや終わりの始まりである。キャンドル氏のように、妻を咎めることをせず、特定した相手のところに談判にいくのも夫としての自由裁量であるが、そういうことがあったと不倫相手から広末に伝わるだろう。それなのにすっとぼけている夫に怖さを感じるのではないか。陰険なやり方といえば恋文の暴露もそう。

 



妻が相手に差し出した恋文を公に晒すなどは、あきらかに腹いせである。世間に妻の悪行を晒し、自尊心を潰しておい「別れる気はない」などとよくもいえたものだ。人として異常であり、キモチ悪いと思って当然だ。誰がこんな男といっしょにいたかろう。穿った見方をすれば、すべてはキャンドル氏による離婚を前提にした作戦といえなくもない。別れようと決めていても口では「別れたくない」「やり直したい」などといっておけば、別れたい妻の側は高額な慰謝料を払ってでも別れようとなる。

キャンドル氏の作戦勝ちかも知れない。恋文を世間に晒した時点で妻を痛めつけようという腹だったのだろう。好きで結婚した相手とどうなろうとも、いって行くとこなどない。「清純派女優に清純女などいない」といったものだが、広末の男運の悪さも身から出たサビであって、これすらいって行くところなどない。芸能界は派手な世界といわれるが、高収入者が多いのでそちらの面でも大きな金が動く。離婚して再婚しない者もいるが、孤独に耐え得る人間こそ、完成された人間なのかもしれない。

 



再婚が悪いとは思わないが、そんな風に思えるところもある。自分で自分を支えられない人間は、他人に拒絶されることで、己の存在感にさえ不安を感じるものだ。反対に孤独でいれる人間は、自分で自分を支えることができている。他人に寄り掛からない強さといってよかろう。いろいろ悩み事でいっぱいな心的状態というのは、不要な家具でいっぱいになった倉庫兼屋根裏部屋のようなもの。何でも捨てずに詰め込んでおくとそんな風になる。不要なものは捨て、身軽にしておけば苦悩も少なくなろう。

自分で自分を受け入れることをアクセプト(accept)という。諦観などと訳されるが、諦めきれられないことを諦めて別の何かを見つけ探すのも前向きな人生である。とある将棋の棋士が、自分を捨てて去っていった妻を必要以上に逆恨みをし、ついには刑事事件まで起こしてしまった。女に嫌われて殺害するような男は、よほど自尊心が強いのだろう。「女なんか腐るほどいる」などの柔軟な思考をもてばいいものを自尊心が災いして執着する。なんというのか、男というより、女の腐ったような人間だ。