「邪念」という言葉を若い人は使わない。年配も少ない。オヤジの後を継いだ寺の息子から言われたことがあった。「邪念」とは、倫理的に正しくない考え。悪い考え。また、みだらな情念。 悪意やたくらみを秘めたよこしまな考え。などの意味があり、人間なら誰にでもあるだろうが、本人の心が汚いからだけで起こるともないだろう。われわれの社会は、無理が通れば道理ひっこむところがある。だから、無理をごり押しする人もいるようで、そういう人の心の中では邪念が育てられていくことになる。

 

人の心が完璧に美しければ、邪念の生まれる余地はないが、清も濁もあるのが人間であり、正念に従いぬこうとする生き方も諸事情に妨げられることもある。それを弱さといえばそうだが、弱き者こそが人間だ。邪念の多くは人間の欲から起こる。人が持たぬものを持ちたい、人よりよい暮らしをしたいなどは誰にでもあり、それ自体が邪念でも何でもない。が、そうした正当な要求が歪められた場合において、その要求を歪みから解放して正念の形に返してやらねばならない。それができるかどうか。

 

 

人の家に盗みに入ったり、人を騙して利益を得ようとしたり、人を裏切って自分の気持ちを通したりなども人間のありがちな行為だ。「自分の好き勝手に生きることがなぜ悪いか?」を自問する人も少なかろう。その理由は答えが難しいこともある。なぜなら「自分の好きに生きること」が悪かろうはずがないからだが、「好きに生きる」と「好き勝手に生きる」は違っている。「自分は彼女が好きだから、彼女の気持ちがどうであろうと、たとえ暴力に訴えてもいうことを聞かせたい」と思う人間もいる。

 

どちらかというと、「別れ」を告げられたときに同行動に出る男は少なくない。逆に女は「泣いて」「泣きぬれて」現実を受け止める。これは演歌の歌詞の世界だけではない。女性が基本的に受け身であるのと、非力であることがそういう状況を作るが、たとえつらくとも女性の方が現実的である。つまり、女性が非力で受け身であることが現実的な生き方を選択するのでは?という風にも考えられる。男の基本的心情はロマンかも知れない。「男のロマン」とは、そうした子どものような世界観をいう。

 

信長も秀吉も家康もロマンチスト。国全部を自分のものにしたいと、彼らは日夜戦いに明け暮れた。男は戦うことが本能かも知れない。異国の地(シャム=現在のタイ)で王となった山田長政も甚だしくもロマンチストであった。 長政は1590年頃に駿河国(現在の静岡県)で誕生したとされている。彼は武士であったが地位は末端の身分だった。海外で一旗揚げたいと考えていたのか、1612年頃に朱印船でシャムのアユタヤ王都に渡る。アユタヤに到着後に長政は、現地の日本人傭兵隊に加わり活躍した。

 

当時のアユタヤは貿易が活発な国際都市として繁栄していたが、国内外での紛争も絶えず、日本人傭兵は貴重な戦力であった。日本人傭兵の多くは、「関ヶ原の戦い」や「大阪の陣」で活躍した屈強な武士(浪人)で構成されており、普段は貿易商人として活動していたが、有事の際には国王の軍隊として勇猛果敢に戦った。長政は軍事的才覚に加え、強運も味方にして徐々に頭角を現し、ついには約800人の日本人傭兵の隊長となった長政は、スペイン艦隊の侵攻を撃退するなど、数多くの武勲を立てた。

 

 

その輝かしい功績から、1628年当時のアユタヤ王朝ソンタム国王より、最高官位オークヤー(大臣級の官職)に任命され、セーナーピムックという名を賜る。その後、1629年にはアユタヤ王朝配下のリゴール王国の王にまで昇り詰めたが、1630年に戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの薬を塗られて非業の死を遂げたと言われている。シェークスピアの四大悲劇でもある「オセロ」を彷彿させられる。戦国時代を経て経済時代になっても男のロマンは一国一城になることで、多くの経済人が生まれた。

 

かつて日本には、ゲイツやジョブズがゴロゴロいた。三井・住友・三菱・安田の四大財閥創始者を筆頭に、映画で稼いだ財を孫文革命に捧げた梅谷庄吉、パリで800億円を散財して名を残した薩摩治郎八、武器商人から新規事業を立ち上げ一大財閥を築いた大倉喜八郎、吉野杉を財として近代日本のパトロンとなった土倉正三郎、「売りのヤマタネ」といわれ相場の神様と称された山崎種二、真珠の養殖に成功した御木本幸吉、日本で最も美しい庭園を造った足立全康らは、類まれな商才を発揮した人物。

 

 

名こそ知られてないが、敗戦後の瓦礫の中を駆け回った人たち。ダイソー創業者・矢野博丈は、貧困家庭から中央大学二部に進学したが、貧しさのため苦学を強いられた。学生結婚を機に妻の実家のハマチ養殖業を継いだが3年で倒産、700万の借金を負い夜逃げ。その後、ちり紙交換、ボウリング場勤務など9回転職、1972年に雑貨をトラックで移動販売する「矢野商店」を創業。倒産企業の在庫品を格安で仕入れ安値で売る。スーパーの店頭や催事場や、公民館前の空き地・駐車場などで販売していた。

 

矢野は商品の陳列、補充、会計までを一人で行った。その後均一価格での商売の胴元に弟子入りし、当時「100円ショップ」という概念はなかったが、100円均一価格での商売は既にあった。値段を元々100円以外も付けていたが、忙しくてラベラーが間に合わず、100円均一にしたという。ユニクロの創業者柳井正は、士服小売りの「メンズショップ小郡商事」を立ち上げ、1963年にファーストリテイリングの前身となる小郡商事を設立、後に「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」に社名を変更した。

 

 

 

ユニ・クロ社名の語源はユニークな衣料(clothes) 。現在の日本の立志伝的な人物だが、矢野(広島)、柳井(山口)に加えて、渦中の人物ビッグ・モーターの兼重宏行(山口)がいる。商売というのは正道だけでは限界があり、多少のあくどさも必要だが、社会的に問題となるようなことは慎まねばならない。民間企業だから利益の追求・確保はやむを得ないが、それこそ「自分の好き勝手」をやっていては、組織が大きくなるにつれて綻びが生じるのは、人間社会の仕組みとの関係から必然的に起こってくる。

 

問題発覚した企業は、雨後の筍のように次々問題が膨らんでいくようだ。なぜなら悪事に手を染めるのは一人ではできない仕組みとなっている。「赤信号も皆で渡れば怖くない」といってるうちはいいが、会社は多くの人間が絡み合っている以上、正義の観念も違ってくるだろう。ここに及んで未だトップが謝罪会見なりを開かないのは、申し開きができない程の悪事をやっていたからだろう。説明責任を果たさない理由として、「当社には広報部門が存在せず」などといってるようでは呆れを通り超す。

 

 

 

これだけ社会問題になっているなら、その対策としてすぐにも「広報部門」を立ち上げなければ埒は空かないのに、埒があかないままで済ませようとの魂胆だろうか?

責任者というのは、責任を取る立場の人間であって、広報部がなくとも責任を取る人は存在する。それを社長が一年間の報酬を辞退したと、この対応だけはすこぶる速かったが、これ自体では何ら会社の損失となっていない。個人の利得の問題と会社としての対応は全く別であることが、兼重社長の意識にはないのではないかと感じた。

 

「会社はだれのものか?」。しばしば問われるが、会社は創業者個人のものだけでなく、役員・幹部や社員のものであり、上場・非上場に関わらず株主のもの。同社は不正の発覚以降、記者会見を開いておらず、利用者への説明責任も果たしていない。24日夜、読売新聞のメールでの照会に対し、「説明責任に関する様々なご意見を真摯に受け止め、今後の対応を検討する」と回答した。社会的責任を前に、誰もがこういう悪辣経営者のバカ面をみたいのだから、早々に世間に顔を晒すのが常道であろう。