大学が三極化の様相を見せる中で子どもたちの二極化が進んでいる。子どもはいつしか大人になるが結婚しない男女が増えている。就職難は人手不足を解消しつつあるが、フリーターやアリバイトが増えたのは、大学を出て仕事につかない若者が目立つ昨今だ。少し分のいい契約社員になっても、正社員への道は険しいのが実情。出生率の低下に歯止めはかからず、一方でほどほどの生活から貧困に転落する人も増えている。小泉構造改革の負の側面である経済格差は、あらゆる格差に反映されている。

経済格差は教育格差や人間の心の格差にまで及んでいる。日本国憲法に謳われている「教育の機会均等」はもはや幻想でしかない。偏差値レースに参画しようものなら、幼稚園から大学までの費用の試算は、当然ながら公立と私立では大きく違ってくるが、データは2014年のものだから10年も経てば2~3割は上昇しているだろう。公共料金をはじめとする近頃の一斉値上げムードは、家庭の食卓を脅かすほどになってしまっている。スーパーに行っても、これってこんな値段だった?と思う商品が多い。

 



「経済格差とは何だ?」端的にいうならヒルズ族がいる一方で、生活保護を受ける世帯が増え続けてる現状である。「一億総中流」といわれたのはいつ頃だったかを回顧するに、日本の総人口が1億人を突破した高度成長期末期の 1970年代ころにおける、国民の大多数が中流階級に属すという共有意識のことのようだ。これが日本国民の普通であったなら、そうした普通の人々が少しづつ減っている。ニューリッチ層が増える一方で、貧困層に転落する人たちもいて、二極化が子どもにしわ寄せする。

1970年といえば50年前。記憶もいろいろ薄れているが、当時に比べて学歴購入値段も相当な額になった。ちなみに50年前の1万円を現在の価値に換算するとどうか?いろいろな算定基準があるが消費者物価指数でいうと、1970年の1万円は今の3.2万円になる。国立大学の授業料は年36000円で、早慶・同立でも20~30万程度。現在はどうなっているのだろうか?国立大学の入学金および授業料に関しては、文部科学省が「標準額」を定めて、各大学はこの「標準額」の上限20%以内に設定する必要がある。

 



2020年度の「標準額」は入学金が282,000円、授業料が535,800円となっている。私立大学は以下の表。子どもを持った以上、教育は親の義務。かつて教育はサービスという認識であった。つまり、学校は教育サービスの提供者であり、親と子はそれを選択する立場であるという考えが浸透していたが、こんにち公教育はサービスとは思えない時代になってしまった。なぜなら私立校が台頭し、独自のカリキュラムで優秀生徒を輩出するなら、親は多少無理をしてでも子どもに価値ある教育を受けさせたい。

自分たちの時代、私立校はあくまで公立校の受け皿的存在であった。わざわざ高い月謝を払って私立校に行くのは、公立に行けないあぶれた子どもたちだったからだ。したがって、私立校に通う子は肩身が狭かったし、公立校の生徒から見ればアタマの悪い子との認識だった。差別意識はないにしても、区別は歴然としていた。ところが、私立と公立が逆転した背景には、私立校の独自性と経営努力のたまものである。ある私立校に行く奴が「うちの学校は100人受けて200人は入れる学校だ」と冗談をいう。

 



地方では私立のボロ学校が今では名だたる優秀校になっているのを見ても、公立校など所詮は「親方日の丸」の公務員といわざるを得ない。教育はサービス業から消費材になったこんにちにあって、教育の消費者としてそれぞれの家庭の経済力や情報力に応じて教育を購入しなくてはならない。公立公なのに小学受験があり、中学受験があるなど考えられなかったが、全国どこでも誰もが同じ教育を受けられるせいどではなくなった。公立校であっても競争原理を取り入れて優秀生徒を作ろうとしている。

かつての秀才・才媛というのは、他の生徒より自主的に多くの時間を勉強にあてていた者の呼称だったが、今では学校が積極的にその任を負う。生徒の能力差によるクラス選別が導入されるなど、50年の間に大きく変ってしまった。能力別クラス編成は子どもの差別であると日教組は反対したが、能力のある者とない者を同様に扱うのは能ある者を伸ばせられない。同じ年度に入学した者はそろって同じ年度に卒業するという並列志向の日本に「飛び級制度」はないが、その点だけでも教育後進国である。

そのくせ勉強が嫌いな子にも塾を強要する親が台頭してきた。かつての親は、我が子のアタマのレベルをしっかり把握していて、「お前は大工や左官や理容や看護婦などの手に職をつけた方がよい」と毅然としていたものだが、いつしか勉強できる者だけが幸福になると思い込むようになっていった。そのように思い込ませるように社会が変遷したからである。中卒・高卒は恥でもなんでもない、その子の能力にあった処置だったものを、みんなが高校に行き、さらには大学に行くのが義務のようになる。

人の運動神経能力に差があるように、足の遅いものはどれだけ訓練しても速くはならない。同じように、勉強が嫌いなものは、勉強が得意な人間に比べて脳の構造が違っているわけだから、塾に押し込んでケツを叩こうとも成果に限界がある。塾は手っ取り早く解法を教えるだけで、地頭を良くする魔法など持ち合わせていない。「勉強が嫌いな子は遊んでおれ」の時代が、勉強が嫌いでも無理やりさせられる子どもは憐れというほかない。嫌なものを強要する親に、金属バットを向ける子に悲劇である。

 



どれだけ多くの子どもが勉強を強いられて親に歯向かったか。歯向かい方もいろいろだったが、反抗できない子は親からの圧力を心に留めるしかない。それで精神のバランスを崩したり、愛着障害というメンタルに苛まれたり、子どもは親からのストレスで心に障害を持つようになる。自分のように、どれだけ親に愛されなくても「屁でもないわ!」という逞しさは、自立・自尊感情のなせるワザである。親とか教師とか神であるとか、そういう権威的なものを妄信しない強さは、すべて思考から育まれた。

考えれば分かることを考えないで受容する人間の情けなさということか。家庭に経済格差があるように、親の質の格差もある。それらを家庭環境というなら、生まれてくる子どもは環境を選べない。だからといって、良い環境を羨んでみても、何かが変わるわけではない。こういう論理建ての図式においても考えれば答えは出てこよう。足るを知りながら、そこから自分がどういう風に羽ばたけるかも思考の賜物である。バカな子どもは考えないが、賢い子が考えるというより、考えることで賢くなる。

逞しい人間だから行動するではなく、行動するから逞しくなる。すべてのことは「逆もまた真」かなと。自分はそういう思考系でやってきた。わかりやすくいうなら、思考行動型ではなく行動思考型であって、若い頃はとりあえず行動して結果を待ったが、経年になると思考が行動の前になされるようになる。若い頃の失敗はすべて肥やしになるが、年をとれば肥やしより的確な判断を求められる。孔子はそれを「六十而耳順」といい「七十而従心所欲、不踰矩」ともいった。若年・老年また楽しき哉。