人は死ぬ、我々もいつか死ぬ。それは疑いのないことだが、事故で死ぬか病気で死ぬのかあるいは自殺するのか…そこは分からないが、自分についていうなら絶対に自殺はしないと断言できる。同じような考えの持ち主は少なくなかろう。精子と卵子が合体して生命が誕生し、生命は長い時間をかけて成長し成熟する。その過程でさまざまな能力を取得し、社会に貢献する人もいる。生まれつきの容姿端麗ですら、広義の人の能力であるが、「美人であることが能力なのか?」と、ミスコン反対者はいう。

それだけではない。ミスコン反対議論には様々な論点があるようだ。実際にある大学で初めてミスコンを開催しようとしたところ、強い反対活動があって中止となった。大方の反対派の論点は往々にしてクソ難しく哲学的に論じられるが、どの意見でさえも「単純な性差別ではない!」というところに着地させる。そこに社会学者や人類学者が参入して不毛な論議が展開された挙句、結局ナニが反対なのかワケがわからない。「ミスコン反対」の理由を説得力をもって論じる人がいたらノーベル賞モノだ。

 


   ミスより準ミスの方が美しかったりするわけだから、ミスコンなんかほとんどお祭りだろ

医学生理学賞・平和賞あたりが適切か?美しい女性は現実に存在し、彼女たちを評価するのはブサイク女性への面当てか?「そうなる」という意見もあるが、「美しいものを素直に美しいと感じる心と、僻み根性は別ではないか?」そういう毅然とした考えもある。自然が美しいように、何の努力なくとも先天的美貌の持ち主のどこが問題なのか?もっとも美貌の体型を維持する女性にすれば、美容や節制などは想像以上の努力を強いられるという。好きなだけポテチを食べる女性に何をいう資格があろう。

「美しい女性を愛でたい」は、異性の本質的・本能的なものであって、誰がそれを否定する権利を有すのか?同性女性においても卑屈な考えを抜きに、素直に正直な視点でみれば「美しい」「綺麗」と感じるようで、「羨ましい」というのはそれとは別の心情である。ミスコンは、そんな人間の自然な本能的欲求を満たすイベントであって、美しい女性の立ち居振る舞いを見たいと思うのは、上記した男性だけではなく、女性にも少なくない。事実、ミスコンの審査は男女複数名の審査員が行っている。

「赤いものでも黒と思え」の思想は、封建時代の藩主と藩士の関係として教育されるが、民主主義思想というのは、同じ赤においてもさまざまな赤が存在するが、重箱の隅をつつくような考えも、少数派として無視はできない。「全員一致の評決は無効」という考えがある。これはミカの弁証法と知られており、「全員一致で一人の反対者もいない」のは、偏見に基づくもの、あるいは興奮によるものであり、一昼夜をおいて再審すべしとなってる。「全員一致」というのは日本人的には最善の評決となる。

ミカの弁証法の根底にあるのは、人間には真の義はない。よって絶対的無謬はありえないということだ。わかりやすくいうなら、人は間違いを犯すものであると言い換えられる。したがって、全員一致にして正しいとすることは、全員が一致して誤っている可能性もある。たとえわずかでも異論を称える者があるなら、その異論と対比の上で比較・検討すればいいが、全員一致でお開きになるなら、その正当性を検証する方法がない。したがって、誤りでないことを証明する方法がないものは無効となる。

 


      陪審員の評決は全員一致が原則。そうなるまでに徹底して議論し合う

口を開けば同じことをいう国民は思想に染まっているのか、懲罰を怖れているのかどちらかもしくはどちらもあると考えられる。毛沢東の中国、スターリン時代のソ連、さらには北朝鮮などの社会主義国は国家の統制のために国民を縛り付けている。北朝鮮は当然のごとくで、現在のロシアも習近平の中国もその名残は消えていない。こうした国の締め付けに対する造反者は粛清されるのが習わしである。アリストテレスは「知覚することは苦しむことだ」といった。人間は誰も苦しみたいものなどいない。

よって、脳は苦しいことの自然回避に向かう。これが生命維持の原則か。2020年10月2日、ロシア西部のニジニ・ノヴゴロド市内の内務省庁舎があるゴーリキー通りのベンチで、女性ジャーナリストのイリナ・スラヴィナさんが焼身自殺を図った。「私の死の責任はロシア連邦にある」と書き置きしていたが、自殺の理由は国家による言論弾圧で、家宅捜索をうけたことによる。「言論弾圧で家宅捜査」などと、考えただけでも怖ろしい体制をとっている国家もあるのだ。そんな国に誰が住みたい者がいよう。

 

 
     抗議の自殺という意図はわかるが、過去の例をみても抗議になったためしがない

が、現実に居住している人は「国家の赤を赤としかいえない」。従えぬ者は染まるか牢獄か自殺かの選択を強いられる。好きでそういう国に生まれたわけではないなら、大人しく国の体制に殉じて生きるのが多くの国民だろう。国家の過ちを知った時に「知覚することは苦しむこと」をどのように処理して生きるかも、人間の選択であり課題である。「我々が知覚していることや考えていることを意識することは、我々自身の存在を意識することだ」と、アリストテレスはいい、以下の言葉を発している。

「私は、敵を倒した者より自分の欲望を克服した者の方を、より勇者と見る。自らに勝つことこそ、最も難しい勝利だからだ」プーチンや習近平を倒すな、金正恩を倒すな、彼らの思想になびけ、従え、それが真の勇者といってるように聞こえる。ソクラテス~プラトン師弟らの理想主義を否定することで、アリストテレスは現実主義者として生きた。昨今ではアリストテレス的現実思考の方が、世を生きるために役立つのだろう。理想に生きる勇者は過去の遺物であり、理想のために死すは支持されない。

 


     最後のところ、自殺なら「今日のすべて」じゃなく、これまでののすべてだろ?

吉田拓郎の『自殺の詩』を知ったのは1971年ころで、彼の『人間なんて』というアルバムの一曲だった。曲を聴き詩をに目を通しながら、「これが自殺の詩?」と思った以上の感慨はなかった。『自殺の詩』は自身の自殺についてか他人の自殺についてか自殺についての論評なのかもわからない。ただ、最後の「バイバイ」という言葉に、自殺の真実を見る。自殺は自身のすべてを消す。それはまた、自分の全存在の意味をも消す。今まで何のために生きてきたのか?今後どのように生きていきたいのか?

ryuchellが自らの命を絶ったのは、SNSで叩かれたのが原因という。自分はryuchellではないのだから、自分の考え方で彼の死を捉えた。彼が主体的に選択した生き方・死に方を第三者が軽々しく否定はできないが、思考はなされていい。以前自分のブログに否定的なコメントがあったときにこんなふうに答えた。「自分と異なる意見に耳をふさぐことはないので、好きに意見を述べていいです。いちいち反論はしませんが、あなたにどれほどのキャパがあるかどうかは、露呈するので自身を眺めるがよい」。

 


  「相手にするだけ無駄です」じゃなくて、「人にちょっかいだすバカはほっとく」にかぎる

人が人に対する姿勢は「人の生き方に口をはさむな」である。そんなことをして自分の人生に何の得もないが、人をいじめて楽しんでいる。だからいじめと思わないことだ。書いてあることがどうこうではない。人が人の生き方に文句をいうな、指図をするなという考えでいれば、気にするどころか、そういう行為をする相手はバカたれである。行為の根本時点で愚か者。ところが、ryuchellはそう思えなかった。だから、他人の指図で死を選んでしまった。強く生きることはバカを相手にしないことだ。

バカをバカと定義する根拠を自分なりに持つことが大事である。相手に伝える必要もないし、馬に念仏を説いても意味はない。いろんなことをいわれて気にする人は結構いる。それは自尊心が傷つくからだろう。三つ子に「バカ」といわれて傷つく人間もいるだろうが、大方は笑って済ませる。相手はたとえ大人であっても、やってる(いってる)ことは三つ子と同じこと。なぜそう思わない。大人は子どもをあやせてこそ大人であるから、同じ土俵に上がることはない。子どもをあやせるキャパを持つことだ。