我々は「偽善」や「虚栄」という言葉をよく使う。「偽善」とはうわべだけを飾って正しいように、あるいは善人のように見せかけること。「虚栄」とはうわべだけを飾って自分を実質以上によく見せようとすること。二つは似ているようで異なり、異なるようだが本質は同じものだ。三木清は「虚栄的である人間は偽善的」であるという。偽善者とは自分を善人のように見せかけるが、反対に自分を敢えて悪ぶった人間に見せる者もいる。幾人かそういう人間を知るが、なぜそのようにふるまうのか?

彼らの深層心理は、善をなすことでは認めてもらえないレッテルを貼られていたり、心の中で素直になれずに善に対する反発心もあってか、どうせ注目されないのであれば、いっそ悪役に徹しようとする。不良や暴走族たちもそういう系統で、こうした偽悪も一種の虚栄である。世の中にはなぜか偽善者を非難する風潮があるが、偽善者を自認する人間は自分の悪を認めているということになる。この点において、自分を善人だと思い込んでいる非善人(偽悪者)の方がたちが悪いということになろう。

 

    

自分をよく見せたい、人によく思われたいのは人間の自然な気持ちだが、必要以上に背伸びをしても本人も疲れるし、いつかボロが出るのは分っている。そうした先のことを見こさないで、その場その場で嘘で身を固めていくと身動きできなくなる。だから嘘つきはいつもその日その場を生きる。これでは相手から信頼を得ることはできない。小さなウソなら誰でもつくが、虚言癖といわれるくらいにウソの多い女がいる。偽善者や虚言癖の女が怖いのは、彼女たちが単に嘘つきということではない。

彼女たちが常に意識的人間であるという怖さかも知れない。意識的であるということは常に何かを構えていることだから、それだけでも人として自然じゃない。自然であるということは「ありのままに」ということだ。偽善者は常に他者や社会(世間)を意識している人だから、他者や世間の評価を気にし、意識して行動選択をすることになる。そういう傾向は誰にもあるが度合いが強いと自然にふるまえないので、自分はいったいどういう人間かわからなくなる。こういう状況は当人にも相手にも怖い。

 



文明や文化が進んで道徳が教育されるようになることで多くの偽善者が生まれた。未開人の人たちは偽善者ぶる必要すらない。したがって、偽善も虚言も文明病ということになる。ひと昔まえなら、活字になっていることはすべて本当のことという意識があったが、近年のネット社会における情報の混乱状況は、正しい情報を取り出すことさえ難しくなっている。ネット情報を鵜呑みにし、本当かどうかを確かめることもせず拡散する人も多い。あげく、それを意識的に悪用したりする者が少なからずいる。

近年はあまり使われることのない「阿諛(あゆ)」という言葉は、「人におもねり、媚びへつらう」という意味で、そういう人は間違ったことをいう人よりはるかに悪い。自分は物心ついた頃から上位者に対しておもねたり媚びへつらうことはなかった。その理由は簡単で、人に合わせるより自分を主張したい気持ちが強かったからだ。 人に譲歩したり負けたりするのがきらいな激しい性質の子どもを、「キカン坊」といった。大人からいい子に思われたいとか好かれたいなどの気持ちはさらさらなかった。

 

     

何をおいても自分を主張して存在感を示す。ケンカをして相手に怪我をさせても謝らなかった。「怪我をさせた方が悪い」と担任教師にいわれても納得できなかったし、自分からすれば悪いのは相手だから謝る理由がない。担任教師は我が家に来て相手方宅に謝りに行くよう諭した。父と一緒に菓子折り持参で相手宅に行くと、相手の父親はいきなり父を罵倒した。ケンカ相手はアタマに包帯を巻いていた。無理もない、振り回した棒がアタマに当たって出血したのだ。父は畳にアタマを擦り付けて謝った。

が、自分に謝れとはいわなかった。行く時も帰る途中もその後も、そのことは何もいわず叱ることもなかった。家では母親だけがグダグダやかましく吠えていたが、母が父親のようにできる筈がない。都合のいい時はしゃしゃり出て、都合の悪い時は父を立てる母は典型的な内弁慶の人。親であるというだけで、相手から罵倒されて土下座をする父を見るのは辛かったが、二度と父にはこんな思いをさせないと心に誓ったのを忘れない。今に思えば、父は自分の非行の後始末を楽しんでいたのかも知れない。

 



昔、こんなCMがあった。「わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい」。たくましく育つとは姑息で卑屈なオトコになるなかと。「憎まれっ子、世にはばかる」とは、人から憎まれるような子は、世間に出ると幅をきかし、威勢をふるうと父は知っていたのだろう。息子の後始末をすることに密かな満足感を得ていたのだろうか?息子に対する父親の愛というのはそういうものかも知れない。母親は「世間に顔向けできないことはするな」というが、「オトコは世間にはばかれ」と父は教えている。

世間に反抗しろ、世間を怖れるなという父親の逞しさである。「日本人は礼儀正しい」といわれることの本質は、他人を怖れていることにすぎないのではないか。別の言い方で、他人が自分をどうみているかを気にしているのだ。自由とは、自分の固有の可能性の実現を目指して生きること。自分の才能を開花させて生きること。そうであるなら、他人を恐れ、委縮してしまって自由である筈がない。だから、自由であるためには他人なんか意識しないこと。他人(世間)から解放されることではないかと。

 



他人の評価に絶えずビクビクしないで物をいえばいい、物を書けばいいがそれができない。自分固有の関心を失うということは、他人の評価を得れないことより、はるかに己の人生を貧しくしている。周囲に自分をよく思われたい、上司の評価を得たい、恋人に良く思われたい、同僚にいい奴と思われたい。そのことで緊張を強いられ、気兼ねをし、遠慮をするなら、一体真の自分はどこにあるのか?さらに他人の視点の中で生きることは自ずと虚勢を張る。みなぎる虚栄心の中で違う別の自分を生きる。

気づかぬうちに偽善者となってしまっている。自分をしっかり見つめない人間のなれの果てだろうか。人間関係に表と裏を作らぬよう意識し留意するが、人もいろいろだから、合う合わないは当然にある。そうであるなら、付き合いをやめるがいい。合わない相手に無理をすることはない。日本人が同調的であるのはしばしばいわれることで、なぜにそれほど他人に合わせ、自分をおさえて同調するのか?一口にいってしまえば、他人を怖れているからだろうし、自分をよく思われたい意識が背景にある。

虚栄は人間そのものであり、自分の人生を生きる以上、誰もが人生の作者であり、主人公であり、主演俳優であり、演出家である。無人島に住むなら虚栄は無用だが、社会のなかで他人と比較されたり、争うことになるなら、虚栄的であるということは、人間が社会的であることを示しており、やむなく他人の目を気にして生きていくことになるが、時に虚栄は人間の心を乱すことにもなり、虚栄で身を固めた人間は自らの虚栄によって身を滅ぼすことになる。ならば人間は虚栄とどう向き合うべきなのか?