「奢る」「驕る」「傲る」は、すべて「おごる」と読む。「奢る」は、飲食をご馳走するという意味。「驕る」は思い上がった態度をとる。「傲る」は「驕る」と意味は同じ。さらに詳しくいうなら「奢る」は過度にぜいたくな状態になるという意味で使われる。「口がおごっている」などと使う場合、口が贅沢になってしまっているということ。その反対に「貧乏口」というのがあって、何を食べても美味しいと感じることをいうが、「貧乏口」は地域の方言なのか誤りで、正確には「貧乏舌」という。

貧困家庭に生まれたことで粗末な食事になれた貧乏体質のことで、それほど悪い意味では使われないし、自虐的に使う者も多い。「オレは貧乏舌だからご飯と漬物があればいいんだよ」などと。「驕る平家は久しからず」はことわざにもいわれており、この場合の「驕る」の意味は、「権勢・地位・財産・才能などを誇って、思い上がった態度をとる」こと。平家の滅亡は、地位や財力を誇って思い上がった振る舞いをしたという教訓になっているが、一般的によく使われるのは「態度がデカい」などなど。

 

          

成功して謙虚さを失う人間は偉そうにふるまうが、そういう環境になくても、プライドの高い人間は自然と傲慢な態度をとりがちになる。何がしか金をもっているとか、学歴があるとか、人によっては、イケメンや美人にもその手の人間が多い。美人が他人にちやほやされると否が応でもそんな風になるが、性悪女の代表と捉えている。日本人は「謙虚」であることが美徳とされているからか、一見、謙虚風に振舞う人間の心の奥底には高邁な自尊心が潜んでいることもしばしばで、そこを見抜くも大切。

大切というより人間の表裏の面白さと捉えている。そういう人間は、必要以上に謙遜したりと、ワザとらしさから見えてくるのでわかりやすい。「謙虚」に見せて実は気をつけなければならない人間の代表と自分は捉えている。悪人が善人ぶった物言いをするのも一例で、彼らは「きれいごと」を好む傾向がある。人間は時に「好意をもって」あるいは「憎悪をもって」相手を理解せねばならない。善意だけで相手の正しい理解はできないほどに人間は表裏を巧みにつかうもの。これには人生経験が必要。

騙された経験のない人間は人を善人と思うが、騙され騙されて、さらに騙されても、人の悪意に鈍感な人間は学習しない人間だ。かと思えば一度の失恋体験から人間不信に陥り「二度と恋愛はしない」という傷つきやすい人間も知っている。結婚したものの、散々な目にあって離婚した女性が「二度と結婚はしない」も理解する。人生経験というのは、どれだけ多くの人間に接したか、体験したかということだから、自然と引き出しが多くなる。人間を詳細に見つめてきた自分に引き出しは少なくない。

人の性格はその言動に現れるもので、隠し立てはできない。高い感受性と洞察力でそれに気づくか気づかないかということになる。自分がもっとも嫌う、"他人を見下す人間"は一発で分かる。嫌いであるだけにその傾向を幾種もデータに持っているからで、人間社会で諍いの起こる要因としては、傲慢な態度や高邁な態度があげられよう。自分はそういう人間種を許さないと生きてきた。子どもの頃に遭遇したその手の人物といえば母であったが、不幸にも彼女は死ぬまでその性悪さを修正できなかった。

 

   

変えなかったのは変わらなかったと思っている。なぜなら、どんなに自分に非があろうと決してそれを認めず、すべてを相手のせいにした。こうした驕った性格が修正できるはずもなく、しようという気もないのは当然である。いわゆる「ジコチュウ」人間とは「他人軽視」のなせるワザであろう。軽視だけならまだしも「無視」という程になると病人といっていい。心理学的にいう「仮想的有能感」の持ち主で、「自分は他人に比べて、エライ、有能だ」というのが深層にあって自身の体面を保っている。

自分を「エライ」「有能」と思ったら最後で、伸びる土壌はない。ゆえにかそういう人間は永遠にバカで終わる。「バカ」とは「向上しない人間」の意味。作家吉川英治の「自分以外皆師」という言葉の全文は、「私は地道に、学歴もなく、独学でやってきた。座右の銘というのではないが、『われ以外皆師なり』と思っている」。感動させられた言葉だった。感動だけならサルでもできよう。実践しなければ絵に描いた餅。学歴や独学はさておき、人が地道にあれだけのことができるのは脅威である。

人は何がしかのものを持つことで謙虚にはなれないもの。それが講じて傲慢になってしまうのは情けないことだ。しかるに人間というのは、そういうダメな生き物であって、だから自己啓発力が重要になる。人が傲慢になる理由を突き詰めると、己の所有する何かに依存しているのが見えてくる。それが自分にとって有害であることに気づかない限り人は依存に寄り添っていく。自分を自分たらしめるものはそれしかない。まさにそれ…と、しょぼい有能感に満たされる。典型的な向上しない人間だろう。

「驕る」ということにいいことなど何もないが、知らぬ間に心が驕るようになっていくものは多い。「それにどう歯止めをかけるか」に気づくかどうか。それだけに限らず、自分の何かに気づくかどうか。それが自己変革の始まりであり、先ずか気づかぬことには始まらない。そして自分を修正するといういばらの道に進むのだ。加藤諦三氏は「自己変革は王国一つを転覆させるくらいむつかしい」といっており、「三つ子の魂百まで」の慣用句に習えば、自己変革は生きてきた年月ほどかかるといわれる。

 



自分は13歳でクラスの友人にいわれた「お前は自慢ばかりする」と。その言葉に傷ついた。と、同時にこれまでの自分を見つめ直した。その時にどんだけ嫌な自分であることに気づいた。優等生だった自分の鼻持ちならないところに気づくことはなかったが、クラス一の劣等性から指摘された。小学校から特殊学級にでたり入ったりの知恵遅れのMの強烈な一言は今なお頭から離れない。彼がいなかった自分はどんだけ嫌な自分のママであったか。Mには心から感謝している。あれからもう60年が過ぎた。

自己変革はいまだ遠い道のりだがやりがいがある。生きていながら日々の反省は多いが、達成感もないではない。人間は反省と満足に生きている。おそらく「傲慢」は母からの遺伝子だったろうし、傲慢人間と生活を共にすれば環境から影響も受ける。そうした中で唯一の救いは「傲慢人間」を徹底批判したこと。自分は「母のような人間には絶対にならない」と自らに言い聞かせていた。さらには「母のような女は絶対に妻にしない」と、こちらも言い聞かせていた。幸いにしてそれは適うことになった。

理想の妻を得て理想の家庭を築いた。子育てにおいて長女・次女は満足の粋にあるが、3番目と末っ子は手をかけなかった。同居を希望した母親とそりが合わず家を出たからだ。絞めるものがいなく、好き放題で手に負えない末娘を妻は甘やかせた。教育を施された人間とそうでない人間の差はあまりに歴然で、結局3番目・4番目とは絶縁した。肉親だろうが他人だろうが、バカとは縁を切るのが自分流で、それほど他人と肉親を人間的な同一視点で捉えている。我が子を甘やかすも実は親の甘えだろう。