「僻(ひが)む」の意味を言葉で表せといわれてもちょっくら難しい。あいつは「ひがみっぽい奴だ」などというから、「僻む」の意味は分かっていってるんだろうが、あらたまって説明をといわれてもだ。調べたところ、「僻む」とは、ひねくれた考えや気持ちのことをいうらしい。似た言葉に「妬む」がある。「妬み」とは、相手を羨ましく思うあまりにその人を憎んだり憤ったりする感情だ。両者は似ていますが、区別するには、感情の方向がどちらに向いているかを考えればわかりやすいだろうか。

「妬み」は、相手のほうが優れていると感じたことから生まれる感情で、方向は相手に向いている。「僻み」は妬む気持ちがさらに進んで、自分が不当な評価を受けているとすねている状態で、この場合、感情の方向性は自分に向いている。日本人には「ひがみ根性」が多いとされるが、その理由には歴史的・文化的な背景がある。島国である日本は長い間鎖国をしていた。文化的な側面においても、ムラ社会が強固に形成されており、何世代にもわたって同じ地域に暮らすことも少なくなかった。

 



こうした社会環境においては、意識が内側に向きがちになり、小さな集団・狭い範囲の中で他人と自分を比べて、ネガティブなことを考えるようになったと推察されている。ネット社会になって、SNS上や有名人の行動などについてのバッシングなどは行き過ぎと思われるものも多いが、名も姿も隠して発信できれば、面と向かっていいにくいことも平気でいえてしまう。こうした姑息性に「僻み根性」が合わさり、行き過ぎた中傷やバッシングの合唱連呼につながる。「皆がいうから自分もいう」日本人。

西洋は「罪の文化」、日本人は「恥の文化」といわれるが、具体的な意味を探るとこういうことになる。西洋では行為の善悪は、自身の内面(心)に宿る罪の自覚によって決まるが、日本人の行為の善悪は、それが外側の世間から是認されたり、精彩を受けたりすることで決まる。こういう文化にあっては、子育てや子どもの教育観にも大きく影響される。つまり、西洋社会では、倫理の絶対基準を説いて子どもたちの罪の自覚に訴えることで良心が啓発されることになるが、恥が基準の日本ではまるで違う。

「そんなことをしたら世間の笑い者になる」だの「親が笑われる」などと、状況的な外圧に基づいて善行や悪行が導き出されることになる。我が母は自分に対して二言目にはその言葉を投げかけたが、小学生高学年くらいになると、母のその言葉には本当の善悪より、親の見栄や体裁という風に受け取っていた。つまり、親自身が世間に笑われないために、子どもの善悪を決めていると感じた。そのことが「親がどう思われるなどと、知ったことか!」という反発になったのだ。これは正しいと今でも思う。

なぜなら、母親の教育理念というのは「自分が人に笑われてはならない」が最重要であったということで、「子どものためを思って」などは欠片も感じられなかった。良い点をとったり書画が入選すれば満面の笑みで讃えるのも、自分がいい気分になっているだけのこと。こんなものは教育でも何でもない。自分はこんな親とは絶縁し、自らを自らで制す自己教育力を求めていった。バカな親にひれ従っていればバカになるしかないのは自明の理である。後にこれは会社の上司にも通じることとなっていく。

 

     

 

  

子どもと一緒に音楽をやっている時、日本音楽コンクールや海外のコンクールに入賞するような秀逸な生徒は、日本の音楽大学の授業にも出ない。師事する教授のいうことも聞かないといっていた。つまり、そんなことよりもさらなる高みにいたる勉強を自らが主体的に行っているということだ。悪くいえばバカにしており、よい点をいえば媚びへつらわない態度である。日本人の世界的ピアニスト内田光子も少女期からオーストリア(外交官の父の赴任先)のウィーン大学で高名な教師に師事していた。

が、彼女はいう。「皆さんは、私がよい大学で良い教師についたことを評価していらっしゃるけど、そんなにはとんでもない。私の音楽の勉強の一切は自分でやったものです」。芸術というのは模倣を超えたオリジナルなものであらねばならない。もっとも避けるべきは他人のコピーである。かつて大リーグの先鞭をつけた野茂英雄、そしてイチローに黒田や田中マー君ら日本人選手らにも周辺からの僻みはあったろう。さらには今の大谷選手などは、周辺・同僚から僻むどころの活躍ではなさすぎる。

「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打とうにも打てない」と、いうことだろう。同じことは将棋の藤井聡太にもいえること。一般人がどれほど努力・研鑽しようとも辿り着くことのできない領域ゆえに「僻む」どころのはなしではない。彼らの隠れた努力や節制は目には見えぬが、数日前に掲げたハーマーリングの以下の言葉が見事に合致する。「人は最高のものを共存しない。幸福になるには孤独であれ」。さてと、人はなぜに人を妬むのか。なぜに僻むのか。考えれば間違いなく答えは出よう。

「プライドが高い」「強い嫉妬心」「計算高い性向」に加えてストレスが多く、感受性の高い人間も僻みっぽくなる要素を持つ。この中で自分に当てはまるのは「高い感受性」のみだが、僻むなどは無縁である。その理由として相手の技能を素直に率直に認めるからだ。それができない人にはいっておきたい。人を認めないことで自分が相手より優秀なのか?もしそう思うならお前はバカだ。相手の技能を素直に認めることで、自分の技能の質が落ちるのか?そんなことなどあるはずがない。ならばなぜ…?

 



人を認めることで増すものも減るものもないなら、なぜに人を認めることができないのか?人によって種々の理由があるのだろうから、その答えを個々が考えて答えを出すことだ。そしてそれについてさらに深く考えてみることだ。そうすることで、いかにつまらない自分であることが分かったなら、そんなつまらぬ自分で今後も居たいかどうかが問われよう。居たいならそれまで、居たくないならそんなくだらない自分とおさらばそればいいのでは?嫌な自分を徹底批判すれば、嫌な自分は止められる。

時間はかかるがいつもどこでも批判を忘れぬこと。自分が嫌なら嫌な自分を止めることだが、そこに障害として立ちはだかるのがプライド。「つまらんプライドなんか捨てちゃえ!」そのためにこんなことを考えてみる。全宇宙の中の銀河系の地球という惑星の、世界の中の小さな日本という国の、とある都府県の中の市区町村。町村といえども広いので何丁目何番地と区画されている。そんな小さな地域の片隅に居住する人間なんてのは、どれだけ小さい存在かを考えてみればいい。それでプライドか?

「笑わせるな!」である。そんなプライドにどれ程の価値がある?自分一人では生きられない人間だ。そんな奴の頑ななプライドが何だというのか?己の矮小さを考えてみるとわかるのは、大きな視点で眺めると、針の先で押したテンより、さらに小さい自分ではないかと。プライドは自己向上の妨げになる。だから、小さき自分であっても、あくせく大きくなろうと生きるべきではないか?プライドは「僻み」の裏返しで、二つは同じもの。自分に自信がないから、僻む代わりにプライドで支えている。