「一にお世辞、二にお世辞、三、四がなくて五にお世辞」という程、ナルシスト女性は世辞に弱い。女性を攻略するのもに有力とされているが、「私にお世辞は通じないよ」といわれて肩透かしを食ったみたいに「お世辞じゃないです。ホントですから」という男もダサい。そんな風にいわれたら「分かりました。以後は絶対にお世辞はいいません。真心で話します」といえる男はセンスがある。世に「いいオトコ」、「いいオンナ」というのがある。定義はないので人によって「いい」は異なるようだ。

自分の思う「いいオトコ」は容姿端麗でなく、会話のセンスと思っている。知性と教養に裏打ちされながら、あけすけに出すことなく、会話の流れをあるときは主導し、ある時は追随して女性の自尊心を刺激する。女性は基本的に依存の部分も、受け身の部分もあるが、男にかぶさって支配したい部分もあるので、そのあたりを受け取って場違いな会話をしないこと。それをセンスという。反面「いいオンナ」の自分なりの定義はこちらも容姿端麗にない。言葉のなかにある女性の本能的な母なるやさしさ。

 

     

さらには言葉の選び方でこれもセンスといっていいかと。そうしたセンスを意識する女性は洋服選びにもあらわれるもので、単に流行を追うとはちがっている。むしろ、流行を追う人ほど流行に遅れている。「いい」というものほど曖昧なものはないように「悪い」も同じこと。オトコで最悪なのは女性にあれこれ問いまくるバカで、いいたいこと・いいたくないことは自発性に委ねればいい。いいたいことはいうし、いいたくないことはいわない。最悪オンナは一言でいえる。「性悪女」と思っている。

「ここで怯んだら負け」という場面は、将棋によくあらわれる。「怯む」は「ビビる」に似ているが少し違うようだ。「ビビる」は怖がって恐れをなすという状況だが、「怯む」は(多少なり)怖気づいたりするけれども気後れする程度の感じのようだ。「ビビる」は話にならないが「怯む」ならまだまだ頑張れよう。喧嘩やいい合いのときなども怯むと相手は勢いをますので、何の得にもならない。人間だから気後れすることはあろうが気持ちで支える。自分は「怯まない」をもっとも心掛けている。

女性に怯むオトコもいるが、いい合いでも殴り合いでも負けない自信があれば怯むなどあり得ない。「口のたつ女には適わない」と白旗をあげるオトコはいるが、自分は負けたことがない。逆上させてヒステリーを起こさせていた母との喧騒が役立ったのだろう。「理屈でこられても困るんだけど」などという女には「感情だけでガタガタ言い合うのはアタマの悪い女のケンカよ。オトコとやり合うなら論理を磨いてこいよ」などといえば尻尾巻いて逃げるしかない。女に口でやり込められたことはない。

オトコもいろいろ論理を磨くのはいいと思うが、昨日こんなやり取りをみて、正直情けなくなった。自称ネット論客で有名なHは46歳になる。その彼がこんなことをいっている。「言い方は悪いが所得の低そうな人ほど、牛丼チェーン店で店員に『ごちそうさま』と言う(本来不必要なレベルの)礼儀正しさを備えているように思えるのは興味深い。つまり所得が高そうな人ほど傲慢でマナーがないってことか」。こういうバカげたことに反応したり取り合うのか。ま、自分なら振られても答える気もない。

 



おかしくないか?牛丼店で『こちそうま』という人間に何がしかのレッテル貼ってどうなるというのか?46歳のオトコにしてはあまりに稚拙では?といえば、「それはあなたの考えでしょう」というのだろうか?「当たり前だろが。自分の考えだから自分の口からでるのよ。君は自分の口から誰の考えをいうのかい?」といえば、どういう屁理屈を返すだろうか。そんな彼を論破王という。むか~し、幼児向け番組で「ロンパールーム」ってのがあったが、これはもう、ロンパールームのオッサンだろう。

悪口というより、金持ちがどうとか貧乏人がどうとか、そんな話題のどこが面白い。おまけに彼は、「ぼくは所得が一億超えているけど、低いのかな?」などという。自分が奴の目の前にいたら「自分の収入がどう、預金額がどうなど晒すことか?帰ってクソして寝ろ!」というだろう。月収数十万、年収数百万の人たちを前に、「所得が億を超えてる」などと何とも底の浅い人間に映る。模範になるような、立派な人はいないんか?と思うが、そういう人はちゃらちゃらネットに現れないのかも知れない。

 

         

書籍を買って読むしかない。社会をよくするためには適切なリーダーが必要だ。いろんな人が浮かぶが斎藤孝の著作を若い人は読むといい。彼の秀逸な頭脳は現代人が学ぶべき筆頭か。と、偏見気味に推しておく。お金持ちを羨んだり、怯んだりすることはない。格差時代を自分らしく生きるために、何をすべきか問われるなら、「外的条件」だけを幸せの根拠として追い求めないことか。誰かとの比較もそうである。吉野家の牛丼店でどうダラ、金持ちがどうダラ、貧乏人がどうダラに何の意味がある?

煽る奴がいても怯むことなくそういう話題は見下げるべし。人を羨まず蔑まずという生き方は、自分は自分でいいという自己肯定感に満つるものだから、どうにかしてそのことを獲得できるといい。趣味などはもっとも効果的だろうか。「人間にとって最大の幸福は――自分が一年の初めと比べてよりよく人間となっているとかんずることにある」というのは、お金もいらない費用も掛からない生き方である。「よりよき」とは何か?ということもあろうが、それは個々の価値観だから定義はできない。

 



しかるに「自分らしく生きる」基本というのは、住む場所があり、平和であり、社会参加もし、家族や、家族がいない人であっても、愛する人や動物がいることは必要だろう。さらにいうなら、人間として生理的欲求が満たされていることも大事なことだ。レス状態の夫婦も珍しくない昨今において、不倫には癒しの効用がある。ソープやパチンコなどのギャンブルと同じかも知れない。いずれにもさまざまなリスクがあるが、行う以上責任はかぶらなければならない。それが「癒し」の対価であろう。

平穏な生活を求めて結婚したはいいが、刺激が足りなくてそれを求める。刺激というのは底なしだからエスカレートするばかり。マズローという心理学者に有名な「マズローの欲求レベル」というのがある。基本的なのが「生理的欲求」で、次に「安全欲求」さらには「社会承認欲求」がある。これらが満たされたうえで「自己実現欲求」が生じる。こうした諸欲求が満たされても、個人が自分にふさわしいと思うことをしていないなら、すぐに新しい欲求や不安が起こる。人間とはこうしたものである。

これらからマズローは「人間は自分がなりうるものにならなければならない」という。「なりうるもの」とは大望でなくとも、自分らしい固有の人生を送りたいという願いであり、それが実現できれば不満も欲も解消される。大谷翔平と藤井聡太の動向を見るだけで毎日が楽しい自分が幸せである。野球はほぼ毎日だから、大谷選手の活躍ぶりを目の当たりにすれば、日本のプロ野球はどうでもいい。聡太の将棋を見ていると、他の棋士の将棋がしょぼい。われわれはいい時代に恵まれたと思っている。