大谷翔平はともかく明歩谷清とは?人の名前ならどこの誰だ?知らない人、若い人たちにとっては初めて聞く名だ。明歩谷とは関取のしこ名で、彼を知る年代はどのあたりだろうか?経歴に触れてみる。明歩谷清(本名)は、1937年4月29日 生まれ。北海道阿寒郡阿寒町(現:北海道釧路市)出身の元大相撲力士。86歳の現在は「エホバの証人」の伝道師である。189cmの長身で、小学6年生のときには176cmあったという。大相撲北海道巡業の際、郷里の元三段目力士の部屋でちゃんこを御馳走になった。

それを機に両親に角界入門を希望するも大反対を受けて対立した。通っていた雄別中学校の校長が、「絶対に大物になるから、3年以内に(関取)昇進出来なかったら身の振り方を善処する」と両親を説得、高島部屋へ入門、1954年3月場所で初土俵を踏んだ。角界入りは、長身過ぎて農作業には不向きであるという本人の判断もあったという。長身を生かして左四つからの吊り・上手投げで人気を博したが、角界におけるイケメン力士ということで女性ファンも多く、あだ名は人間起重機と呼ばれていた。

 



起重機とはクレーン車のことで、吊りが得意だったことによる。初土俵から5年後の1959年7月場所新入幕、1969年11月場所を最後に引退。最高位は東関脇で引退当時は西前頭9枚目だった。明歩谷清は本名だが、度々しこ名を変えている。子どものころから自分は明歩谷のファンだった。横綱や大関でもなく、関脇5場所、小結7場所、前頭45場所という目だない明歩谷関のファンだった理由は、顔が父親に似ていたからだった。同じ頃、植木等のファンでもあったが、その理由も父と同じ名であったこと。

母との喧騒に明け暮れた小中学生時代、父だけが心の支えだった。嫉妬深い母の手前もあってその思いは隠していたが、父に似た明歩谷や植木等への思いを露わにすることで間接的な気持ちを表した。我が家の財布は母が管理していたこともあって、欲しいものを強請る状況にはない。仕方なく新聞配達を始めたが、当時の世相からか、小学生の新聞配達や牛乳配達は当たり前だった。自分はメガネ店のショーウィンドウの中に置かれていた天体望遠鏡が欲しくて仕方なかった。店頭価格は6000円だった。

 

       


冬の朝は寒いが、それより夜の明けぬ暗いがりの方がイヤだった。あるとき、販売店のオヤジが町の新聞配達少年を相撲観戦に招待したいと聞かされて心が躍った。地元の篤志家というのはありがたいもので、数十人がバスで大相撲準本場所に出かけることになった。準本場所とは地方巡業のことだが、力士を直に見るのは楽しみだった。自分は密かな計画を立てていた。団体行動を遵守するよう注意を受けていたが、ある計画とは何としても力士の控え部屋に潜入し、明歩谷にサインをもらうことだった。

力士の支度部屋は土俵のある体育館とは別棟のプレハブで、入り口には「関係者以外立入禁止」とあったが、そんなものには目もくれず、つまみ出される覚悟で支度部屋に潜入した。真ん中に通路があって、両脇に浴衣着の力士たちが坐していた。お目当ての明歩谷がどのあたりにいるのか分らぬままに、左右の力士の顔をみながら捜し歩いた。「こんなところに来ちゃダメだよ」といわれ、「すみません」といいながらも無視して奥に。一番奥ほど階級の高い力士だから、中段くらいに明歩谷を見つけた。

 



テレビでしか見ない明歩谷は子どもから見ると巨人のようだったが、顔はまさしく明歩谷であった。目が合ったときは睨みつけられたようで、ドキドキものだったが、おそるおそる用意していた手帳を差し出しながら声にならない声で「サインしてください」といった。明歩谷はそんな自分を凝視しながら言った。「帽子をとって!」。いわれるままに帽子をとった。「サインをお願いしますじゃないのか?」と叱られた。「サインをお願いします」。予想もしないお叱りの言葉に体が震えまくっていた。

明歩谷は小さな手帳についていた鉛筆で右上から左下に向けて斜めに"明歩谷清"と書いてくれた。受け取った自分は一目散にその場を去ろうとすると、「ありがとうございましたといわなきゃダメだよ」と追い打ちをかけられた。今に思うと躾も礼儀も何にもされていない、ただの腕白坊主の自分であった。そんな子どもに、キチンと礼を教えてくれた明歩谷関である。サインをもらったことより、そうした束の間のやり取りが心に残っている。数十年を経て知ったことだが、明歩谷はクリスチャンだった。

 

    

現役の関取時代にあっても妻の影響もあってキリスト教系の新興宗教である「エホバの証人」に入信していた彼は、相撲は神道であることから、キリスト教信者であるはのは親方業は継続できないと考えるようになったが、「格闘技は聖書の教えに反する」教義も大きかったようで、部屋付き親方として弟子の育成をしていたが、1977年1月場所を最後に廃業した。その後はビル清掃業で働きながら布教活動を行っていた。なにかと噂の絶えない「エホバの証人」だが、信者にとっては拠り所なのだろう。

今回の表題「大谷翔平と明歩谷清」についていうなら、二人に何らかの関連はない。この表題にした理由は、下の一枚の写真から小学5年生の時に明歩谷にサインをもらったことが思い出された。いうまでもなく、少女が大谷選手にサインを求めている写真だが、何ともいたいけな少女が帽子をとっている姿に感動させられた。挨拶の際における脱帽文化は日本だけのものではないし、ゴルフのトーナメントでホールアウトした際に選手が帽子をとって挨拶を交わすが、日本人野球選手の脱帽場面は多い。

 



「アメリカもお辞儀の文化は有りません。会った時の挨拶は、握手かハグです。帽子を取る仕草は謝るのと同意で、アメリカでは「謝る=負け」を示す事に成り、投手が死球与えても絶対に遣りません。ましてや頭下げるなどは、謝罪行為なのであり得ない。大谷はぶつけた選手に帽子をとって謝罪するが、日本人以外の投手は謝罪をしない理由は、「ミスなんだから仕方なかろう?」ということらしい。ミスでも謝る日本人とは文化の違いという他ない。謝罪して悪いことはないがしなくてもお咎めなし。

少女の脱帽写真を見て大谷選手が「帽子をとろうね」といったのではないか?と、明歩谷のことを思い浮かべた。これは偉そうにではなく大人の子どもに対する社会教育であって、自分はサインをもらった以上にそのことを感謝している。大谷選手もそれくらいの社会教育力を持った人間であるが、あれこれ思考をめぐらせた結果、少女の自発的行為と結論した。どうという確信があったわけではないが、欧米において目上の人に対する子どもの脱帽というのは希薄なのだろうし、そこは大谷も判っている。

 

  

教室内で帽子をかぶったままの生徒、足を机の上に投げ出す生徒も珍しくないが、日本では頬づえをしただけで注意された。これは目上の人の話を聞く態度としての礼儀を叩きこまれるからだ。アメリカでは聞く態度における「礼・非礼」の判断はない。本人が最も聞きやすい態度で聞くのがよいとされている。大事なことは耳に入れるかどうかであって、聞く態度ではないということだ。あくまで学習者に視点を合わせているところが合理的である。聴く態度がよければ内申点があがるなどあり得ない。

そんなことをもろもろ考えたが、やはり自分的には少女の自発的な脱帽と思いたかった。真偽のほどは分からないから「思いたかった」ということ。感受性の鋭い人なら少女に向いた大谷選手の表情から、何がしかを読み取ることはできよう。大谷の表情は、笑顔そっちのけで真剣そのものである。「この少女は何ともキチンと躾をされた子どもではないか…」と、そうした大谷の心のうちが自分には読みとれる。何はともあれ、少女の育ちの良さを感じさせられる。そんな素敵なショットではなかろうか。