離婚報告したばかりの田中美佐子が、とあるレストランでDA PUMPのISSAと会った。その際田中は「この店ね、結婚した時すぐ近くに住んでたからパパとよく来た店なのよ」と語ったところ、同行していた友人から「ちょっと、返し困ってるじゃないですかー!返せないような話しちゃダメでしょー」ととがめられたという。ただ頷いていただけのISSAについて田中は「ごめんなさい、返せないような話しちゃった!」と、自身のインスタグラムにつづっていたというが「返せない話」ってあるのか?

「そんな話をされても返答に困る…」というのは何度かいわれたことがある。その際疑問に思っていた。「返答に困る話」、「返しづらい話」ってなんだろう?どういう点で返しづらいのか、自分にはサッパリ分からない。上記の田中に発言「この店ね、結婚した時すぐ近くに住んでたからパパとよく来た店なの」に対し、「返せない話をしちゃダメ」と横やりを入れられたというが、自分ならどうとでも答える。「そうなんだ、熱々だったころの話だね」とか「懐かしいでしょう」とかいえばいいのでは?

 



「返しづらい」の意味を想像するに、「離婚したばかりで傷心の田中にどういっていいか分からない」ということだろうが、勘繰りすぎ、考えすぎだろう。人が傷ついているかどうかくらいは見極められようし、そうであるならこんな話題は出さないはずで、田中は何のてらいもなく持ち出した。切り出された側もてらいなく答えればいいことだろう。これに類することは結構ある。あるとき自分が母子家庭女性の前で母子家庭について話したところ、「〇〇さんの前でそういう話はよくない」といわれた。

それを配慮といいたいのだろうが、妙な正義感である。そういう同情心というのは、逆に偏見を持っているということだ。「障害者の前で障害のことは言うべきでない」というのもあった。あえていうことではないが、話の流れで自然に出ることをためらう方が不自然というものだ。当事者というのは配慮とか同情とかの方にむしろ違和感を感じるだろうし、自然な話は自然に話せばよいと自分は思っている。相手が自分に好意をもっているか、悪意をもっているか、人間はそういうことには敏感である。

ましてや無用な同情は明らかな見下した態度といわれている。「友への同情は堅い殻の下に隠すがよい。それを噛めば一枚の歯が折れるくらいに堅くしておかねばならない。そうすれば友への同情は、微妙なやさしと甘さをかもすことになるだろう。」と、これはニーチェの言葉。さらにこうもいっている。「まことに、私は他人に同情することで、幸福感を覚えるような慈悲深い人たちを好まない。彼らはあまりに羞恥心が欠けている。」「羞恥心」は『ツァラトゥストラ』のなかで重要な意味を持つ。

対話の精神というものはあろう。のっけの田中美佐子は、自らが率先して別れた夫の話を持ち出しているわけだから、堂々とその話にかぶさればいいことでは?ためらう理由などなかろう。それを「返せない話」と慮るのは考えすぎである。簡単な物事を難しくしてしまっている一つの例と考える。対話はあらゆる問題の解決に寄与するもので、会話とちがって突っ込みが必要となる。可もなし不可もなしというのとはちがって、積極的な物言いが大事だろう。人間関係た夫婦間における友情の問題はある。

 


   何というのだろうか…。ただの「浮気されました」的な、オトコらしくない会見であった。

夫婦間の友情の問題は恋人と違って複雑である。そこに子どもが加わると一層複雑になる。先の広末と鳥羽周作氏のダブル不倫問題に、広末の夫であるジュン氏が会見を開いた。被害者とも加害者ともいっていい立場のジュン氏は、連れ合いの不祥事に対して解決を強いられる立場にある。被害者としての自身の立場にありながら、妻の不祥事をどのように捉えているかは会見で理解できたものの、広末にとってジュン氏への愛は喪失しており、ジュン氏の求めに呼応して元のさやに納まるのは難しい。

自分の恋愛経験からいっても、別れたい女から「別れないで…」「別れたくない」と懇願されて、相手に同情してヨリを戻そうとするのは、自らの気持ちを犠牲にしなければならない。同情は愛情とちがって「情け」であって、別の好きな相手といる方が健全といっていい。その方が双方のためでもある。かつて中森明菜が交際中の近藤真彦の自宅で自殺未遂を引き起こしたことがあった。明菜はそうすることで近藤への思いをあらわしたかも知れぬが、近藤にすれば迷惑甚だしいと感じたのではないか。

 

   

その後に二人は記者会見に応じたが、近藤の態度は社交辞令に満ちたものだった。愛をなくした相手から、こんな風にすがられて愛情が復活するとは思えない。「そこまでぼくのことを思い詰めてくれたのか」と明菜は期待したが、そうはならなかった。女の浅知恵といえば言葉は悪いが、神田沙也加の場合も同じ境遇から未遂とならず、本当に死んでしまった。決死の覚悟で愛を訴えたという見方もできるが、思慮喪失の可能性が高い。自殺の多くは考えたあげくでなく、瞬間の無思慮が引き起こす。

死というものはそれほどに難題であって、瞬間的な精神障害と目されている。自殺未遂は本当に死ねなかったではなく、死なない程度に訴えを起こしたと考えてもよい。感情の動物とされる女性特有の「演技性人格障害」が引き起こすのだろう。この場合に相手にとっては「迷惑」も「同情」も良い結果とはならない。同情は多少なり時間は伸びるが、失った愛が同情で戻ることはない。広末が夫の会見を善意に受け取ることはなかろう。「覆水盆に返らず」というように、こじれた男女は元に戻せない。

 


 あてつけの自殺未遂だったにしろ、本気であったにしろ、オトコにすればとんでもない女である。

夫の会見も含めた今回の騒動において、広末が得たものに何があるだろうか?少なくとも自分には見当たらない。少し前だが、太川陽介夫婦にも同じような事例があった。浮気が露呈した妻の藤吉久美子は、夫の呼びかけに答えて元のさやに納まったものの、その後は言葉は悪いが、監視付きの軟禁状態に置かれているような感じを受ける。藤吉は自身の以後の人生を形骸夫婦のなかに置くことで、夫に謝罪の意を表す。太川もそのことで妻への自身の復讐心を遂げている。自分にはそうしか映らない。

一つの過ちが夫婦の不幸を招いたというなら、互いがクサビを切って自由になる方が、しがらみを切るという点においても幸福ではなかろうか。互いが一つのしがらみを背負ったまま、同じ屋根の下で顔をつき合わせて暮らすのは、以前にも増して拷問に近い。ジュン氏も太川氏も、過ちを犯した妻へのクサビを切って自由にさせてやることができない夫なのだろう。妻が心から許しを乞い、復縁を望むならそれも男のキャパシティといえるが、事実はそうでないと悟った以上、妻を自由にすべしである。

妻を飼い殺しにすることで己の復讐心を遂げるのは偏愛というより、男の屈折した自尊心であり、男の真のやさしさである筈がない。泣きすがる女の手を振りほどいて何処へと去る。そういうやさしさこそが男の真のやさしさと自分は捉えていた。わかりやすくいうなら「解き放つやさしさ」「執着しないやさしさ」であり、これがやさしさの源泉と自分は考えている。妻や恋人に限らず、親の子に対するやさしもこれに含まれよう。対象に執着する愛を女性的というなら、男の愛情は解き放つことにある。
 

 

 亭主関白の太川というが、嫁を手籠めにされてみると、単に威張り腐っただけのオトコであった。