「防音対策してくれ!」と、近隣住人が所有者の田んぼの近くに苦情を書いておいている。これに対して田んぼの所有者はどう思ったか。


──張り紙を読んだ瞬間、どんな気持ちに。
「幼稚園や保育園の近所に引っ越して来て『子どもの声がうるさい!』という人と同じだなと思いました。うるさいと思うのは勝手ですが、それをわざわざ管理者に訴えるのはお門違いも甚だしいと思います」。

これは所有者ならずとも同意するが、訴えに共感する人もいるのだろうか?苦情に共感するどういう理由があるのか是非とも聞いてみたいが、仮にどういう理由であったとしても、それは道理に反したものだから到底受け入れられない。ましてや訴訟を起こしたとしても100%勝ち目はない。田んぼの所有者は何ら気にする必要はなく、自己中バカと腹で笑っているべきと思う。もしも自分が苦情者を前に何かをいうならこんな風にいう。「あなたがカエルの合唱が我慢ならないなら、都会に引越しなさい。

 

   

そこにも都市ならではの騒音はあるでしょうが、あなたにとってはカエルの鳴き声より我慢できるかもしれませんね」。自然には自然の音がある。音だけならまだしも、大雨・大雪や強風・台風なども自然発生する。都会の高速道路に防音壁が備え付けられた箇所もあるが、田んぼに防音壁など聞いたこともない。苦情者はどういう防音処置を求めているにしろバカげた発想だ。従う義務はまったくない。自然環境が嫌なら都会の文明環境に行くしかなかろう。幼稚園がうるさいので越す人はいるらしい。

が、幼稚園に苦情をいうのが無理だから自ら去るというのは順当だ。消防署の近くに転居してサイレンの音に耐えられず越した友人がいた。「まさかあれ程に救急車や消防車の出動があるとは想像もしなかった」といっていたが「サイレンを鳴らすなと電話をしたらよかったのに」と冗談を吹いておいた。勿論、これらも都会の騒音である。田舎には田舎の、都会には都会の音がある。どちらも耐えられないというなら、どこか無人島に行くしかなかろう。かつてはピアノ騒音殺人事件というのもあった。

 

   

マンションなどの集合住宅では時間規制がなされるが、「禁止」という項目はない。が、ペットや赤ん坊の泣き声の苦情を理事会に申し出る人も少なくない。江戸時代の町人長屋の住人が、隣の部屋から聞こえる娘な下手な琴をほほえましいと川柳に書いている。時代はほのぼのから世知辛い世になった。「世知辛い」の意味は「世渡り」の知恵の「世知」と、「辛い」が組み合わさった造語で、世渡りが難しいの意味。その他にも、金銭に細かくてケチなことや抜け目がないことの意味も持っている。

ネットの苦情相談といえば「発言小町」。もしも江戸期に「小町」があったらどういう相談の類があったろうか。かの石川五右衛門は「世に盗人の種は尽くまじ」と辞世の句を述べているが、「世に悩人の種は尽くまじ」と置き換えられる。ウェルテルの苦悩は現代の苦悩と何ら変わりない。人間は文明を進歩させたが。人間の本質自体は何も変わっていないし、変えようがない。「よい人間はいくら暗黒の衝動に促されていても決して正しい道を忘れない」とゲーテはいっているが、本当なのだろうか。

 

 

ゲーテの『ライネッケぎつね物語』は、森の王様ライオンは正義を重んじ思いやり深く、平和な生活を森の動物は楽しんでいた。ところが、悪賢いライネッケというキツネが、ライオンの充実な家臣たちが逆意をもっているとウソの密告をし、ライオンに殺させ、最後にはライオンまで騙して自分が森の王になるという、「悪人栄えて善人ほろぶ」というストーリーである。こういう物語は何とも後味が悪いが現実なのかもしれない。『君主論』を書いたマキャベリはこの問題に彼なりの意見を述べている。

「人はキツネとライオンの二役に努めなければならない。ライオンはどうしても罠にかかるし、キツネはどうしてもオオカミに食われざるを得ない。したがって、キツネになって罠を見抜き、ライオンになってオオカミに対峙すればよい」。人は一筋縄ではない。がゆえにこちらもそれに対応しなければならないという教えである。いい人だけではダメで、ときには悪人の素養も必要なのだ。そういう柔軟さを持っていれば、何事にも対処できよう。こうした懐の深さをどこで如何にして養うべきなのか。

 



田んぼのカエルの鳴き声を迷惑と感じる人はいてもいいが、そういう人に問いたい。カエルが田んぼに居るのは、田んぼの所有者の責任なのか?彼らはこの問いにどう答えるのだろう?仮に「田んぼがあるからカエルがいる。なければカエルはいない」と断定できるのか?あるいは、「田んぼにカエルがいるのは田んぼの所有者の責任なのか?」という問いの答えを聞いてみたい。カエルがどこに居ようと、どこで鳴こうとカエルの勝手であって、たまたま田んぼにいたからといって所有者に責任はない。

これが道理では?台風や地震や津波に責任がないように、自然に起きることは自然の意志であり、それ自体としての善も悪もない。カエルが鳴くのはカエルの意思である。それを田んぼの所有者に対し、防音しろ、駆除しろなどの苦情を申し付けるなどは、自然と人為の混同だろう。こうした人の善悪基準は感情論でしかない。似たような苦情で、ハトのフン公害がある。田んぼと違って空間の所有者はいないゆえに、苦情は行政に届けることになり、行政が公害対策などの責任を負わねばならない。

 



カエルが鳴くのはカエルの意志。うるさいと感じるのが人間の意識。魚が海で泳ぐのは魚の意志。とって食べたい人間の意識。空腹時に美味しそうな食べ物を見れば食べたいと思うのは欲望で、この段階で意識はない。意識が生まれるのは、「泳ぐ魚を獲って食べたい欲望を抱いている時かと。彼らの自然な振る舞いに対する人間の欲望は自然体系を破壊する。高い確率で大地震が起こるであろうという地域に居住する人は転居するしか方法がない。カエル公害に苦悩する人は文句いわずに転居したらよい。

できないなら我慢する。文句をいうところなどないのに、こういうバカ人間がいるのも世の中だ。田舎には田舎の、都会には都会の生活音がある。これが道理というものだが、道理を理解できぬならアタマがいかれている。人が音の洪水から解放されるのは死んだ時。無人島にもカモメが鳴いている。人間社会に生きる以上、周辺の雑多なことに煩わされぬようになるなら、死ぬしかないと思うのはあながち間違いではない。道理が理解できぬなら、こういう究極思考で自らを納得させ、癒すのも方策だ。