子どもはなんでも知りたがる。また、子どもは考えることも好きだ。じっさい、子どもの生活の全過程は、終わりのない問題解決の旅である。そしてこれは、子どもの生まれた瞬間から始まっている。新生児は、視野を横ぎる動くものを一生懸命目で追いかける。おそらくは、ものの輪郭や幾何模様をよく見ようとするし、母親の顔を吟味することを学習する。表題の「知る欲求」は「学ぶ欲求」と同じではない。「知る」ということは、ハッキリした概念を持つ、あるいは理解するということである。

対して「学ぶ」ということは、記憶にとどめるということである。すなわち、子どもは知りたいと思い、また知ることを学びたいと思っている。その方法として、親に問うたり本を読んだりする。それらから知識を得たり、得た知識をもとに学んだり、そうして幼児は自分自身になっていくが、反対に自分自身を見失うこともある。人間は人生の全期間において、自分自身を認めたり、また自分自身を見失ったりと、すなわち「知ること」は生きることであり、かかわりあうこと、何かになることでもある。

 

      

「学ぶ」ことの真の目的は、"自分が変わること"にある。どれだけ多くの本を読み、あれこれ学習したところで、自分が変わらなければ「学んだ」ことにはならない。人には個々に「器」というものがあり、「器」を磨くのも人間力を高めることになる。「良薬は口に苦し」という。他人の忠告を苦いと感じるのはなぜだろうか?「苦い」の理由は「不快」だからであり、不快な言葉を聞けば誰もが「嫌だな」と感じるはずだ。実はそこに自分の弱点があるということになる。「汝の敵を愛せよ」という。

「敵」というのは自分の弱点を容赦なく責めてくる。そこで試されるのは「敵から逃げるか」「受けて立つか」だろう。さらには自分の敵を愛するということになれば自分の弱点を敵から教わることになる。言うまでもない、敵というのは自分の弱点を誰よりも知る相手である。嫌なことから逃げる人間は、嫌なことを克服したことにはならない。いつも逃げてばかりで対応力は身につかない。自分を磨くとは、そうしたときの対応力を身につけることでもある。「毒をもって毒を制す」という言葉もある。

毒のある人間にはそれに見合った毒が必要だ。「我慢して耐える」方法もないわけではないが、「論理」というのも立派な毒で、手出しをするのではなく論で相手を打ち負かすのが賢者といっていい。『菜根譚』のなかに「子弟は大人(たいじん)の胚胎(はいたい)にして、秀才は士夫の胚胎なり」とある。「他日、世を渉(わた)り朝に立つに、終に個の冷器と成り難し」。「世に出て官位についたとき、一人の令器(立派な人材)にはなれない」との意味。「令」とは令嬢・令息にいう「良い」という意味だ。

「若者は大人の卵、秀才は指導者の卵」とし、この場合の秀才とは人の上に立つような秀でた者の意味。「鉄は熱いうちに打て」という、十分な火力で焼き上げて叩かねばならない。こうして言葉にすると納得できるが、叩かれるのは嫌に決まっている。その時にこの格言を思い出して頑張ることも人にはできよう。自分はことわざが好きで子どもの時から暇さえあれば「ことわざ辞典」「百科事典」を読んでいた。それらはカルタの影響で、辞典を手に入れる前はカルタの語句をノートに書きとっていた。

 

  

学習意識はないので「遊びながら学ぶ」となる。「学び」というのは、遊びの気持ちでやれば、徒労とは無縁になる。現代の受験勉強のような、やみくもにものを覚えるだけで、受験が済めば用済みとばかりに「ポイ」。若者はその重要な年代の時期に無駄なことをさせられており、そういう受験システムを変えない限り日本という国にゲイツやジョブズ、ザッカーバーグのような個性的人間が生まれる土壌はない。日本ではホリエモンやひろゆきが若者に教祖と崇められている。そんな程度なら先はない。

Facebookのザッカーバーグは39歳。彼はありきたりの高校で2年を過ごすが退屈さに耐え切れず、アイビーリーグ大学に進学が当たり前の全寮制高校のエリート進学校、フィリップス・エクセター・アカデミーへと転校。その後、ハーバードに進むが中退した。これはゲイツやジョブズと同じ道を歩んでいる。ジョブズはスタンフォード大の卒業式に招かれたスピーチでこんなジョークを飛ばしている。「世界でもっとも優秀な大学の卒業式に同席できて光栄です。私は大学を卒業したことがありません。

 



実のところ今日が人生でもっとも大学卒業に近づいた日です」。さらにジョブズはスタンフォード大の悪口(?)までいう始末。いかに自由の国とはいえ、超絶的自由人ならではのスピーチの一部を以下記す。「私は本当に大学に通うことになった。ところが、スタンフォード並みに学費が高い大学に入ってしまったばっかりに、労働者階級の両親は蓄えのすべてを学費に注ぎ込むことになってしまいました。そして半年後、僕はそこまで犠牲を払って大学に通う価値が見いだせなくなってしまったのです。」

人生に苦労はつきもの。苦労のない人生など誰にもない。かつてジョブズも自らが立ち上げたアップルを追い出されるという信じがたい苦悩もあった。彼を切ったのはジョブズがスカウトしたジョン・スカリーという男で、飼い犬に手を噛まれるどころではない。業績が低迷したことで2人の間に確執が生まれ、CEO就任から2年後の1985年、スカリーはその根源がジョブズにあるとし、アップルからジョブズを追い出すことを決断したのだ。取締役会の合意を取り付け、ジョブズをアップルから解雇した。

 

 

退任を言い渡された取締役会の席でジョブズは泣いていた。こうした覆いかぶさる逆境から人は逃れることはできない。ならばどうする?「そんなの簡単、逆境と戯れればいいんだよ!」と豪語した友人がいた。口でいうのは簡単だが、「逆境とどう戯れるのか?」を自分なりに考えてみる。逆境の「境」は「境遇」の「境」であるわけだから「逆境」とは思い通りにならない境遇のこと。思い通りになる人生はそうそうない。ならば「思うようにならない人生こそ普通で当たり前」と思うことはできる。

こうしたこともネガティブにならずプラス思考で対処できる。プラス思考というのは日常生活において数限りなく存在するが、例えば自転車で出かけようと思ったらパンクしていたとする。「そっか、これは歩いて行けということだな。その方が健康にいい」。そんな些細なこともプラス思考である。ようするに、思い通りにならぬ現実をプラスに考える。それなら腹も立つこともない。スーパーの駐車場が玄関周囲が空いてなくて、遠くに止めさせられてむかつくという女性に、そんなことで?と笑った。

生きることは旅すること。すべては未知への物語。何が起こるか分からないとの意味で人は漂泊者といえる。「真の幸福とは何か」「自分を苦しめるものは何か」。こういう相手と結婚したいと人は希望を持つが、それは果たして希望なのか?を考えたときに、実は欲望であったり期待であったりの場合が多い。どんな絶望状態にあっても人が希望を持てるのは、ナチス収容所体験を綴ったフランクルの『夜と霧』がある。希望と期待は明らかに違っている。希望は人生を拓き、人生を変える力がある。