表題は時々読む加藤諦三氏の著書。「原点」の意味は「物事を考えるときの出発点」であり、そういうことが主題になっている。第三章の「出発点としての愛と憎しみ」で加藤氏は、「憎まれる親になりたい」という親子論を展開させている。自分も父親になったらそういう親を目指そうと思っていたこと。特に深い意味はないが、子どもが母親にぐずっているときなど、父親の咳払い一つでやめさせるよう、権威をもつべきと思っていたし、実際にそういう感じでやっていた。母親も心得たものだった。

父がいないときにぐずる子どもには「お父さんにいいなさい」であっさり片付いたようだ。家庭内の領域においては、何でも父親の了解がないとダメという風に決めておけば案外母親も楽ができる。父が反対でも母親の情で決めたりしない妻だったから、双方の親が勝手をし合ってケンカになることは一度もなかった。母親が子どもの要求を呑むということがないのは、指示したわけではないがそのあたりの夫唱婦随度は徹底した。家の中に船頭が二人いるとややこしくなる。その点、理想の家庭を築けた。

 



加藤氏はこう記している。「一人娘であるが、娘が僕を憎むのでいいと思っている。その激しい憎しみの感情を通じて娘は成長していくのではないか。嫁いだ後に夫が浮気をしたからといって、包丁持って騒ぎはしないだろう」。加藤氏はまた、「親を憎む子は成長がはやい」といっている。この場合の成長とは自立のことではないか。自分も小学高学年から母親を徹底憎んだ。そうすることで、多くのことを自分でやった。やらざるを得ない状況だった。ズボンを細くするのも自らの手縫いでやった。

食べたいものがあったら自分で作った。「お母さん、今日はカレーにして」と普通の子どもはいうのだろうが、敵対する相手に頼み事などできるはずがない。困るというより意地でも頼まない。それが講じて自分でやるようになる。本当はやさしい母親を求めていたが、ナイモノネダリと分かって以降、不便とは思わなかった。馴れ合った親子関係にあって、果たして子どもに心理的離乳が可能なのか?そういう疑問はある。親の最終目標は「子どもに親の必要性をなくすこと」も、疑問の余地はない。

 



「乳離れ」できない日本人が多いと昔からいわれていた。西欧人に比べて子どもを突き放すことをしないのはなぜなのか?大学の入学式や卒業式にめかした親が出席するなど、西欧諸国ではありえない。そうすることが「恥」であるという以前に、出席する必要性を感じないからだろう。必要・不要というのは、合理的な考えであるが、日本人のアタマの中はそういう合理的思考ではなく、自分がそれをしたいかどうかということが重要となる。これらから、大学が幼稚園化しているとの批判が生まれた。

のこのこ出かけていくのは自分がしたいからだ。しなくていいことを親がすることを「親バカ」といっている。どうして、自分のことより子どもに何が要で何が不要か考えないのだろうか?自分がしたいことなどどうでもいいことだろうに。娘の結婚式で涙を流す父親がいるが、その根源が何かを理解できない。あれがどういう涙の類なのかを考えても理に適った答えは出ない。淋し涙にせようれし涙にせよ、どちらも自分のなかで湧き出ないのは、娘を嫁に出すのは娘を持った時からの当然の義務である。

 



ようするに、娘をもった時点から準備をしておくことだ。それこそが人間の原点であって、つまりは「物事を考えるときの出発点」ということになる。人は生まれ人は死ぬという以外にも、子は自立する、親を不要とする、娘は嫁ぐ、これらすべてが人間であることの原点思考となっている。有体にいうなら、すべては当たり前のことであって、当たり前のことは当たり前になされるもの。そうはいっても、肉親の死などは情緒的に悲しいことだが、どのような悲しみであれ、受け入れなければならない。

「原点回帰」を耳にすることがある。ということは、「原点」思考が失われているのだろう。真っ先に気になるのが「付和雷同」思考である。自分がこれを必要とし、すべき必要があるから「する」ではなく、人がやるからやる。皆がやっているからやるという、それも日本人的思考である。人が自らを生きるということは、自己の生に責任を持つことである。個性的といわれる人間は、既成の型に嵌った生き方をしない。だから個性的といわれる。自由な生き様というのは自分で責任をとることだろう。

人間が型に嵌って生きるのは、それがもっとも楽な生き方だからである。サラリーマンという型、学生という型、妻という型、教師という型など、言い出せばキリがない。型に嵌るということが現在の自分の存在に責任を持たなくてもいいのではと思ってしまう。それに比べて型破りな生き方というのは大変だが、それを生き甲斐と感じるからそんな風に生きる。型に嵌る生き方とは、「私がこうなる以前からすでにこうしたものはあった」ということだ。旧態依然のもので、オリジナリティなどない。

個性とはあえて他人と違うことをするではなく、他人と同じことはしたくないという衝動をもつ人間こそ個性的なのだ。人から後ろ指をさされようと、変人といわれようと、自分の生き方に文句をいわれる筋合いはないが、型どおりの無難な生き方を好む人間ほど個性的人間を非難する。人間が自分の生き方に責任を持つということは、他人の言うところの罪をごまかさないことなのに、それを他人はあれこれと批判をする無責任さ。人の生き方の責任を他人がとる必要はないのにアレコレうるさいものだ。

 



宗教がどんなものかよくは知らんが、同じ教義で人を縛るのは、同じ人間を作ろうということだろう。同じグループのなかの人間みなが、同じ方向性であることのどこが心地いのか自分には分からない。何にも染まることなく生きていたいものだ。宗教といっても他人の支配ではないか。人間は愚かだから神の指示に沿っていれば間違いはないというのだろうが、「ほっといてくれ」である。体制派がいれば反体制派がいる。神を信じる者もいれば無神論者もいる。どっちが立派ということではない。

「自分を知る」とはどういうことなのか?考えてみたことがある。ある知識を知ったら他人に披露するのがいいとされ、そうすれば知識は自分のなかでより深く浸透することになる。同じように自分のある一面を知ったなら、それを隠すことなく他人に披露するのがいい。そうすることで他人は自分を理解するし、それ以上に自分が自分を理解する。ようするに、"ありのまま"を生きることで、"ありのまま"を知る。"ありのままに"を連呼するアニメの主題歌があったように、ありのままが自然な生き方だ。

人はありのままを生きられるのに、なぜに繕い、ウソの自分を演じてしまうのか?例えば、自分のいいところだけを見せて結婚したらさぞや窮屈だろう。お見合い写真はめかして着飾ることに異論はない。誰が普段着を着て汚い格好で写りたいものがいよう。きれいに見せれば性悪さは隠されるでなく、性悪さは写真には写らない。相手の性格は言動で分かる。顔に美醜に比べて心の美醜は写真に写らない。実際に付き合って「正体見たり」となるが、極めつけの演者は数年はネコをかぶるかも知れない。