これまでの趣をガラリと変えてクラシック音楽について書きたくなった。過去にいくつか記事を書いたが、作曲家や楽曲について書いていない。好きな作曲家は、バッハやベートーベン、モーツァルトを好んで聴いた。バッハを聴くきっかけはなんといってもグレン・グールドにある。彼を知らなかったらバッハを聴いていたかどうかわからない。バッハはたえずフーガを書いていたし、彼はそのフーガ作品によって評価を得ていたが、近現代の流れのなか、バッハは時代の遺物と避けられた時期もあった。

バッハにとってフーガは、他の誰より用いやすい技法だったかも知れない。「平均律ピアノ曲集」全48曲においては、フーガとそれに先行するプレリュードとのあいだに、情感と精神との真の一致が随所で見受けられる。第一巻のハ長調のプレリュードとフーガは構造的に練習曲の分野といってよかろう。「プレリュード」とは前奏曲と訳されているがもともとは、「序曲」「前奏曲」「前兆」「前ぶれ」を意味する。pre(前に)+ludus(演奏する)という構成の、ラテン語に由来する語彙である。

 



バッハ以降は、歌劇など曲のはじめに演奏される曲のことであったが、ショパンやスクリャービン、ドビュッシーなどの作曲者によって、独立した様式の曲として広まっていった。ショパンの『24の前奏曲』は、彼のもっとも重要な作品の属するもので、この一まとまりの作品は快活な楽曲から深い悲しみの楽曲にいたるまで、または、やさしく淡い夢ものがたりから激しい興奮にいたるまでの、ありとあらゆる情感を含んでおり、これ以上多くの出来事は起こり得ない程に、一つの音の旅のなかを彷徨う。

すべての長調・短調含む全24曲から醸し出されるショパンの前奏曲は、まさに彼の小宇宙を形づくっている。構成においても響きの幻想性においても、信じがたいほどの豊富さをもってピアノの持つ可能性が汲みつくされ、楽節や和声においては未来をも指示しているかのような印象を受ける。第2番(a-mollイ短調)はスエーデンの映画監督ベルイマンの『秋のソナタ』で、ピアニストの母が娘に演奏を聴かせた後、娘に同曲を弾くよう促すが、母の演奏を聴いていたときの娘の穏やかならぬ心が読みとれる。

 



      

e-mollで始まるが刺繍音を多用し調性的にも曖昧であるゆえに移ろいながら曲の最後になって緩やかにa-mollへと収束していく謎めいた和声の小品で、二重調性の曲といえる。本来のe-moll(ホ短調)第4番は、トリスタンの和声を先取りしており、当時の和声学の規則をいろいろな意味で超えて、ムソルグスキーやスクリャービンを暗示するという評論家は少なくない。自分は24曲中もっとも好きな小品で、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のジミー・ペイジがLIVEで取り上げたことでも知られてる。

この時のペイジのサウンドはどこかジェフ・ベックのようだ。『24の前奏曲』のピアニストの名盤として、マルタ・アルゲリッチの録音(1977年)がある。近年は彼女を超えるような秀逸な演奏もYouTubeで聴ける。第9番E-Durの終結部分の和声など普通の第7音として減7度を使いながら、それが協和音的に響くことをショパンは知って大胆に用いている。ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環序夜ラインの黄金」のラストの場面である「ヴァルハラ城への神々の入場」のような印象を自分は持っている。

 


ショパンは1810年生まれ、ワーグナーは1813年生まれ、共に影響を受け合ったろう。個々の前奏曲の長さは違い、時に荒々しいほどの雰囲気の差というものは、全体を構成する場合に疑義をもたれるものかも知れないが、こうしたつなぎこそが、芸術家の芸術家たる腕の見せ所といえる。ショパンの前奏曲はいずれにおいても前奏曲ではなかろうし、それはブラームスの間奏曲(インテルメッツォ)が、いわゆる間奏曲でないように、これらは特性あるいくつかの曲の一まとまりといえるのではないか。

1838年10月末、ジョルジュ・サンドの二人子ども計4人でマジョルカ島へ旅立つ前、ショパンはピアノ製作者で出版社であるカミーユ・プレイエルに出来上がったいくつかの前奏曲を見せ、全部で24曲に拡大して一まとめにする構想を伝えた。これに感激したプレイエルは作曲料金2000フランで契約し、500フランを前金として支払った。マジョルカ島では、第2,4,10,21番が作曲されたことは自筆譜から認められる。同年11月3日、マジョルカ島パルマに着くやいなショパンはすぐに仕事を始めた。

しかし、肝心のピアノが届かないことで苛立つショパンはプレイエルに手紙を送る。この頃ショパンは体調を悪くしており、島でもっとも有名な三人の医師が往診に招いた。一人目の医師は「もう助からないでしょう」といい、二人目は「まさに絶望の途上にある」といい、三人目は「あなたはもう絶望です」といった。診断結果は伝染病の結核であるらしく、家主が感染を危惧したことでショパンとサンドは引越しをせまられた。一時フランスの領事館に滞在後、パルマのカルトジオ修道院に移っている。

長い間待たされたピアノが到着、ショパンは前奏曲を完成させた。ショパンとサンドは2月中旬まで修道院に滞在したのち、バルセロナへの船旅に向かう。前奏曲のパリでの出版は1839年9月で、ドイツでもほぼ同じ時期だった。ジョルジュ・サンドは彼女の自伝の中で前奏曲の由来に言及している。「ある夜、私が子どもといっしょに散歩して帰宅すると彼はピアノの前にいて、顔は青ざめ、両眼は落ちくぼみ、髪は乱れっぱなしでした。(中略) 正気に戻った彼はできたばかり前奏曲を弾いてくれました。

 

 

すばらしい曲というより、恐ろしく、悩まされた想いに満ちた曲というべきでしょう」。さらに「彼の天才的な精神は外部の音をそのまま模倣するなどはなく、音の世界での卓越した想像力をとおして表現される、天性の神秘的なハーモニーでいっぱいだったからです。その夜、作曲された前奏曲は、カルトジオ修道院の屋根瓦を成響かせた雨のしずくにみたされていたのでした。しかし彼の幻想と歌の中で、これらのしずくは、天から彼の心に向ってしたたり落ちてくる涙に変わっていったのです。

彼は泣きながらピアノを弾いていました。ふうに私たちが入ってきた姿をみた彼は、大声で叫び声をあげながらピアノの前で飛び上がり、いささか錯乱した調子でこんなことをいいました。「ああ、ぼくはもう、君たちは死んでしまったんじゃないか、そう思っていたんだよ」。このエピソードは、ジョルジュ・サンドが描いた前奏曲に憑りつかれたショパンである。前奏曲24曲の中でもっとも人気もあり、名曲とされる第15番のDes-Dur『雨だれ』は、ある夜ショパンが不安にかられながら生み出された。

ショパンは前奏曲と並んで、e-mollのマズルカ、c-mollのポロネーズ、cis-mollのスケルツォ、a-mollのバラードの他にb-mollソナタの構想を練ったといわれている。マジョルカ島はショパンにとって実りが多かったといえよう。間接的にみれば、この時期にはショパンは持病から解放され、ある程度まで体調をとり戻していたのだろう。なぜなら、このような傑作を生みだすにあたっては、大変な心身の消耗がなされるものだからである。1847年にサンドと別れたショパンは、2年後に39歳で永眠する。