「劣等感は持つべきでない」「持たぬ方がいい」はしばしば耳にする。自己啓発本も結構出ているが優越感はどうなのか?「優越感を持て!」「優越感に浸りなさい」というのをあまり耳にしない。ばかりか、優越感に浸る人間は非難されること多し。物事には表裏があって、優越感というのは実は劣等感の裏返しになるからだ。したがって、劣等感がなければ優越感はない。優越感願望がなければ劣等感もない。「困っている人を助けたい」といえばすごくやさしい人に思われるが、そうともいえない。

「メサイヤコンプレックス」というのがある。コンプレックス(complex)とは、劣等感の意味で使われ、日常会話でもよく用いられるが、一般的な使い方と本当の意味は異なる。心理学専門用語としてのコンプレックスは、ユングが用いたもので、愛着・葛藤・憎悪・恐怖などのさまざまな感情が、複雑に絡み合ったものを表わす。心のなかに無意識に存在し、心的複合体とも呼ばれている。たとえばファザコン、マザコンなども心理学的な意味を持つが、劣等感もコンプレックスの一つにすぎない。

 



「メサイアコンプレックス」を一言でいうなら、「わたしは人々を救うように運命づけられた人間なのだ!」などのように思い込んでいる状態のことをいう。そこまで思い込む人間は「やばい」といえるほどに、他人に対して迷惑なお節介を引き起こすこともある。「人を助けること」「助けたいと思うこと」は、決して悪いことではないが、「自分にはそういう使命感が与えられている」とまで思い込む人間は、むしろ有害となる場合が多く、「親切の押し売り」として嫌われたり、迷惑がられたりする。

自殺未遂をしたほど悩んでいる人間なのに、悩む人を救おうとするなどは病的なものといえる。そういう人の心理分析をすると、自殺してしまいたいという劣等感と、世の悩める人を救いたいという非現実的ともいえる高い願望が共存している。この場合の優越感は明らかに劣等感の裏返しであるのがわかろう。自身のことはほどほどにしながら他人の世話を焼きたがるのも同じ傾向にある。こういう風に人間というのは自身の心の問題を、他人を巻き込むことによって解決しようとするところがある。

「まず救われるべきは他人なのか自分なのか」という問題がなおざりにされているケース。人間は誰の力も得ずに自ら一人で生きていけて、初めて他人を救うことができるものだが、このように劣等感が「悩める人を救う」という仮面をかぶって登城すると、明らかに周囲は迷惑する。ようするに、こういう人は「自分は優れている」と思いたいのだろうし、さらには感謝されることで自らの存在を確かめたい。「自己不在感」や「自己無価値感」に苛む人が、時にこういうことをしたりするものだ。

人が劣等感を抱くケースはいろいろあるが、たとえばリレーのメンバー4人に選ばれたいという願望があるから、選ばれなかったときに劣等感となる。こうした場合に劣等感を持たぬ人というのは、自分より選ばれた彼の方が能力があると素直に認められる。「身の程を知る」というのは簡単なようだが、素直で正直な性格でなければ難しい。反対に深刻な劣等感の裏には強い願望があるものだ。幼少時期のちょっとした心の傷が劣等感を蓄積する場合もあるので、親は言葉を選ばなければならない。

 

  

こんなことがあった。友人が「相手に〇〇をいうと傷つけることになるのでいわない」といった。それほど大したことでもないし、相手が傷つくようなことでもないが、こういう形の善行をすることで、自分をいい人っぽく見せている。それが見え透いてるから自分は彼にいった。「なんか違うんだよな。お前はそれをいうことで相手が自分をどう思うかを心配し、自分が傷つかないようにしてるだけだろ?それはやさしさなんかじゃないし臆病なだけだ」。彼は自分の言葉に傷つき押し黙っていた。

彼を傷つけようと思っていってない。彼のいう善行を黙って聞いていると、やり切ない気持ちになったからだ。自分は一度もいったことはないが「親に心配かけたくないから…」などは、耳が腐るほど聞かされた。「それっておかしくないか?そんな言葉でなくて、心配かけたくないなら、自分がその問題を解決すればいいことだろ?」。親が心配するとかしないとか、そんなの知ったことではない。親の見えぬところでまかり間違えば死ぬかも知れないような、危険な遊びは子ども時分にイッパイやった。

20~30歳にもなって、「親に心配かけたくない」などの言葉を吐かれると、ウンザリ気分になる。自分に解決する力もない奴が、心配かけたくないなどというのは臆病な奴らに決まっている。何をしたって親は見てないのだから、自らの行為は自らで責任をとればいい、それが成熟した大人ではないか。「こいつらどこまでマザコンか!」という思いだった。犯罪を起こすというでもない、人殺しをするわけでもない。なのにオーバーに考える小心者は、自分は親に心配をかけない善良な息子と思っている。

「親孝行」とか「親不孝」とか、そういうことが気がかりな連中に問うたことがある。「親孝行と親不孝があるなら、その境目はどこなんだ?親孝行・親不孝に限らなくていい、幸と不幸の境目とは何なんだ?」彼はいった。「境目なんかないよ。親孝行するかしないかのどちらしかない」「だったら幸と不幸もか?幸福かどうか、不幸であるかどうか、世の中そういう人間だけなのか?親孝行の論理からそう聞こえるな」「そういうことだ」「じゃあ、幸福ってなんだ?」「裕福とか名声かな~」。

 

    

「違うな。違いが分かったからこの話はいい。価値観を戦わせても時間の無駄でしかない」。しばしばここにも書くが「幸福とは心の持ち方」と思っている。なぜなら、いかなる喜びや幸福の所有者とて、不幸の原因にならないものはない。10億円持っていても余命半年といわれることもある。同じ年齢で預金が数万円しかなくても、余命を切られることなく、漬物と茶漬けだけで毎日質素に30年生きる者もいる。それに対して他人がどっちが幸福といったところで、当人が自らの心に問うべきことでは?

余命半年でも億万長者の人生が幸福と思うならそれでよい。人の幸せは他人が決められないし、「人は人。自分は自分」に落ち着く。富裕者であっても、不慮の事故や疾病などが不幸の原因になるように心配事が喜びの種にもなる。昔の人は「苦は楽の種、楽は苦の種」といっている。何ごとにも一喜一憂することなく、何が不幸で何が幸せか、じっくり考えてみる必要がある。温かい心の持ち主はその人と交流する人たちに幸せを運んでくるように感じるが、心の温かいその人が幸福であるからだろう。

もう一つ、幸せな人生を横臥するものに趣味の効用がある。趣味とは人間だけに与えられたエロスで、水泳が趣味という犬はいない。飼い猫はしばしば散歩をするが、あれが趣味というわけではない。とにかく、人間にとって趣味の領域というのは多種多様であり、趣味のある人生ほど楽しきものはないだろう。仕事を引退し、俗世を離れて趣味に興じるときにふと思うのは、「人の真の幸福は晩年にあり」という境地にかられる。確かに若さというのはかけがえのない財産ではあるが、老齢もまたよし。