書きしるすことは、どんなに幼稚でしょぼいことであっても、そのときの自分の心の状況を具体化していることになる。文字にあらわすことで、自分の心はそこに客観化される。何事も頭の中であれこれと思い煩っているだけでは書くことはまとまらない。が、それでも書こうという意思があれば何とかなるものだろう。思うに文章の書き始めは大事であり、一歩一歩少しづつでもまとまる方向に近づくことはできる。そのようにして自分の表現を得ることが、自己を確立することになるのだろう。

上手い文章もあれば下手な文章もあって、それぞれは人の顔のようなものだ。どんなに下手くそでもいいから、自分で思いつめたことを表現する練習をつづけると、それなりに形になってゆくもの。そういう思いでやってきたからか、自ずと文が長くなる。冗長な文は要点をまとめるのが難しく駄文となる。それを何とかまとめるよう努力するのが練習であるからして、怯まずやっている。書くことで自身の心の中を覗くことになり、発見させられることもある。己と対話するには書く以外にない。

 

      

     

自分との対話はオモシロイ。どういうところがオモシロイのか?自らに問いただし、問題提起を引き出させることか。したがって自己との対話において、まずは自らの心に問うこと。自らに問い、自らが答える。だから対話という。例えば、「お前は幸福なのか?」と問う。「幸福だ」と答える。「何が幸福なのだ?」と問う。「何か分からないが、不幸だとは思わない。ゆえに幸福なのだろう」。「不幸でないことを幸せというのか?」。「幸福の定義が分らないので、とりあえず不幸でないとした」。

やり取りからして、幸福の実態というのは難しい。分からないのが当然かも知れぬが、「私は今とても幸福です」という人は、何が幸福であるかをいえるのだろうか?「今まで生きてきた中で、いちばん幸せです」といった少女がいた。彼女は当時14歳、バルセロナ五輪の水泳200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した岩崎恭子である。名言とされた言葉だったが、な、なんと29年後に修正された。「『今まで生きてた中で』って言ったの。『生きてきた中で』って言ってないの」と岩崎はいう。

 

 

「みんな間違えるんです」と、あるテレビ番組の中で苦笑いで訂正した。確かに当時の岩崎は「今までいきてた中で」と発言しているのに、「生きてきた中」とマスコミは誤報し、それが名言となっていた。彼女のいう「生きてた中で」だったなら名言とならなかったのか?「生きてた」と「生きてきた」の意味はどう違うのか?実はこれは文法上は同じ意味となる。いわゆる「ら」抜き言葉といっしょで、「見られる」は「見れる」、「食べられる」は「食べれる」というように訂正させられる。

「今まで生きた」と「今まで生きてきた」の誤解されやすい点は、「今まで生きてきた」は「すでに死んでいる」という意味にも取れるからだ。が、明らかに今生きている彼女の発言である以上、同じ意味となる。彼女は単に発言の違いを述べただけで、意味の違いに言及していない。したところで変わらない。などと、ある問題を深めていくのを、自分の知恵や思考の範囲で自己と対話をする。質問形式にしなくとも、何かを書きつづるそのことが自身の考えである以上、問題提起の答えとなろう。

 

      

幸福という漠然とした言葉の本当に意味するものは何か?ある定義を上に掲げてみたが、…のような気もする。われわれが平生において、幸福を追求するときにおちいるさまざまな迷誤について考えてみる。一体、何が幸福で何が不幸か。それを量る物差しがあるのかどうなのか。よくよく考えると、幸福を量るときに何を基準とするかといえば、まずは「他人」であろう。つまり、他人と比較したうえなら、自分の幸福・不幸が決めやすい。「幸福」なるものは、所詮そういうものかも知れない。

そういうことなら、「幸福などはむさぼるなかれ」となりはしないか?他人との比較の上で実感する幸福などは追求に値せず、止めるべきものかもしれない。幸福の過剰な追及は、むしろ人を精神的に不幸にするのではないか。なぜなら、幸福を自我で分別し、他人と比較して虫のいい空想を抱くことも考えられ、目の前にある小さな幸福を取り逃すことにならないか。つまるところ、幸福とはささやかなものかもしれない。そうしたささやかなるものが、われわれを成長させていくのではなかろうか。

自分が幸福と感じる理由は、「不幸だとは思えないから…」といったが、人が幸福を感じるとる能力は不幸の中でしか養われないなら、間違った幸福感なのか。人は牢獄につながれてこそ自由を理解できるというように…。厳寒の冬にあってこそ、春を実感できるように…。岩崎恭子のような、五輪で金メダルなどは想像の産物でしかない我々だが、考えてみれば彼女の幸福も一瞬であったように思えなくもない。人間の一生を貫くような永遠の幸せなどあり得ないなら、大きな幸せなど不要である。

人が手に入れるべくささやかな幸せは、「不幸でないこと」の言葉の中にあるものなのか。などと錯綜する思考のなか、加藤諦三が『幸福に別れを告げよ』を著したのは1975年だった。驚きのなかで「こんな考えもあるのか」と目からウロコが落ちた。世の中広しだが、こんなことをいう人は加藤氏以外にいない。ましてや著作にするなど言語道断。加藤氏の持論はこうだ。「一切のものは安定しようとする。安定への傾向は自然の傾向である。人間も少年期から青年となり、婚姻を経て安定していく。

 



が、結婚とか家庭というものは、何とエネルギーのない状態であり、エントロピー(自由度)のないものか」。いささか刺激的だが、自由と安定は対語といってもいい。「この現代社会に生きながら、その制度や人間関係に衝突せず、安定して生きるようになったとき、それは人間の仮死状態なのか?」と、さらなる刺激的言葉が胸に響く。確かに若者と老人は違う。若者は老人を「老害」といい、老人は若者を「新人類」という。「宇宙人」ともいう。どちらにとっても、「許容できない」ということだ。

しかし、若者と老人は共存しなければならない。でなくば社会の維持はできない。もし、若者と老人が決定的に分裂するなら、社会は平衡が保てなくなり、人間は自滅するだろう。社会なしに人間は生きていけないからだ。そうしたことから、若者と老人にあってはそれぞれの内部に矛盾があることが大事であって、それがなくなったというなら、どちらかが死んでいるということになる。社会が保ちうるギリギリの限界のところにまで内部対立があることこそ、理想社会といえるのではなかろうか。

矛盾のない人間はいない。矛盾のない人生はない。矛盾なき社会もない。ならば矛盾のあることを前提に人は生きていけばいい。「私は幸せです」と答える人の多くは、"教え込まれた幸せ"を感じとっている。「幸せです」という人の決然たるものは、一体どこにあるというのか?せいぜい平和のなかに惰眠をむさぼることかも知れない。「幸せ」というのは不幸の中にいることで見えてくるものだから、人は不幸であればこそ、幸せを求め続けられる。不幸はしんどいが、頑張るしかない。