多少なりと教養のある人なら、「人は女に生まれない、女になるのだ」という言葉を知っていよう。初めて目にしたときは高校一年の時だったか、この年、ボーボワールとサルトルが初めて来日した。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは一貫してフェミニスムの立場をとった女性で、上記の言葉はその著書『第二の性』の有名な一行である。自伝的小説『レ・マンダラン』はジェンダー論の基礎を作ったと評価され、また晩年にはこんにち的なテーマである、老後の問題を扱った大作『老い』を著している。

アメリカの哲学者ジュディス・バトラーは、『第二の性』のこの言葉について「セックス」と「ジェンダー」の相違を示しているとの見解を指摘する。いうまでもない「セックス」とは生物的な性をいうが、「ジェンダー」とはそれとは異なる多義的な概念で、性別に関する社会的規範と性差を指す。バトラーによれば、「ジェンダー」とは「徐々に獲得していった」アイデンティティの一面と示唆している。ボーボワールのいう「第二の性」とはどういう意味であるのか?第二があるなら第一とは?

 



いうまでもない、第一の性とは男のことであり、社会の中心は男性で、女性は男性に従う「第二の性」とされていると主張した。女性にとってのいわゆる「女性らしさ」というのは、”社会的につくられた約束事にすぎない”とし、フェミニズムの立場から女性の解放を訴えた。同著は女性の自己正当化であり、ボーボワールは女の自己正当化を以下の言葉で述べる。「彼女たちは自分の実存を自分の内在性のただなかで正当化しようと試みる。つまり、内在のなかで超越を実現しようと試みる。

それは自由を奪われた女が牢獄を栄光の天に、隷属状態を至高の自由に変えようとする究極の――時に滑稽な、しばしば悲壮な――努力である」。要約すれば女性の自己正当化は、自由を奪われ「隷属状態」にある女性が自由になろうとして行う努力であるとされ、ボーボワールはこういう女性たちの例として「ナルシシストの女」、「恋する女」、「神秘的信仰に生きる女」を挙げてそれぞれに論じているが、ボーボワールはなぜにナルシシスト女性を、隷属状態であると捉えているのだろうか?

ボーボワールはナルシシストの定義について、「自我が究極の目的にされて、主体が自我へ逃避するという疎外の一つの過程」と指摘し、男性よりも女性の方がナルシシズムに陥りやすい理由を次のように述べる。「女が自分を自分自身の欲望に差し出すのは、子どもの頃から、女には自分が客体として見えていたからである。実際は、対自が本当に他者であること、そして、意識の光のなかで自分を客体としてとらえることは不可能である。二つに分化されるというのは夢想にすぎない」と述べている。

ボーボワールによれば、女性は自らを客体として見てしまうことが多いため、ナルシシズムに陥りやすいが、そのように自我を客体ととらえ分身として疎外するというのは実際には不可能である。そのような分身は存在しないからこそ、ナルシシストの女は本来的な生き方をしていないということになる。ボーボワールは様々な女性の証言や事例などを用いてこれらについて説明した。哲学的表現は難しいが、これが西洋人の「女観」である。それでは日本女性による彼女たちの「女観」はどうなのか?

 

     

平安時代は貴族の女性たちが競うように文学作品を著したが、テーマの多くは「男社会の中で不遇に甘んじねばならない女の辛さ」であった。日本の女性が女としての宿命的な不幸を自覚し、それにどう対処すべきかの思索を始めた重要な時代、それこそが平安時代である。以下は有名な事例とされている。当時宮廷で絶大なる権力をふるっていた藤原道長が、紫式部に対して冗談半分にこんな意味の歌を詠んでいる。「お前は好き物として評判だから、お前を見る男がお前を放っておくことはないな。

お前をわがものにと男どもは躍起になっておる」。ここでいう好き物とはセクシーとかチャーミングの意味で、必ずしも悪口ではない。こうした道長に対し、紫式部はこんな意味の歌で応えている。「私はまだ、どんな男にもなびいたことはありません。なのに、好き物などと一体誰がいいふらしたのでありましょうか。心外です」。紫式部の抵抗は理解はされることなく、彼女も面と向かって男と争うことはしなかった。『源氏物語』に登場する多くのヒロインの悲哀は、まさに紫式部自身であった。

 



『紫式部日記』にはこのように書かれている。「源氏の物語、御前にあるを、例のすずろごとども出できたるついでに、梅の枝に敷かれたる紙にかかせたまえる、すきものと名にし立てれば見る人の祈らで過ぐるはあらじとぞ思ふ。たまわせれば、人にまだ折らぬものをたれかこのすきものぞと口ならしけむめざましう、と聞こゆ」と、これは「女性は男の一方的な評価に甘んじてはならない」と、紫式部はいう。貴族女性にあって、「男社会に翻弄される女の不幸が自覚されだした」のが平安時代。

清少納言もそんな時代の中で、自分なりに女としての生涯を華麗に演じようと挑んだ女性である。彼女の鋭敏な感性ときらびやかな文才を遺憾なく発揮したのが『枕草子』であった。清少納言はこの作品で華麗なる宮廷生活を描き、目につく様々な美しいものや楽しげなものを書き連ねている。宮廷生活の描写は、「日記的章段」と呼ばれる。紫式部による清少納言批判は有名だが、彼女は「身分の低い連中の家にまで美しい雪が降ったり、美しい月の光が射したりするのは腹立たしい」と書いている。

 



彼女にすれば、「美しい自然は貴族のためだけにあればいいのに」といわんばかりであろう。清少納言にとっては、身分の低い者をことさらに侮辱することで、自分より強き者すなわち「男の上流貴族」に対するコンプレックスをごまかそうとの態度が見える。弱い者がもっと弱い者いじめることで、我が身を維持せんとする姑息で悲しい方便ではなかろうか。清少納言の、軽薄なほどに明るいふるまいと華麗なる自己主張の裏には、"男にはかなわない女の不幸"を背負っていたからではと推察が過る。

『枕草子』第四十三段、「にげなきもの」にはこう書かれている。「にげなきもの、下衆の家に雪の降りたる。また、月の指し入りたるも口をし」。宮廷生活の華やかさをことさら強調し、「私たち女は、こんなにきらびやかで明るい世界に暮らしているのよ」と清少納言は、『枕草子』のあらゆる描写を通して訴えるが、これらはいったい誰に向けているのだろうか。仲間の貴族たちに読んでもらう目的もあったろうが、「女の華やかさは弱さと表裏一体」であるを見透かされていたのではないか。

近現代に入り、大正・昭和期の女性解放運動が活発になる。平塚らいていもそのひとりで、彼女は明治四十四年に女性だけの文芸誌『青踏』を創刊。「元始、女性は実に太陽であった」という創刊の辞をおいた。らいてうがめざす「新しい女」というのは、男尊女卑を悪と断じ、社会的・精神的にも男と対等に自立・協調していく女である。らいていは「良妻賢母」という美辞麗句が社会道徳として吹聴され、女は男に逆らうことを許されず、家庭に縛り付けられた女性の解放運動に邁進する。