荒井由美がデビューした頃、「男」を歌わない彼女の楽曲が好きになれず、無視していた。吉田拓郎、井上陽水、斎藤哲夫、泉谷しげるらの歌詞に比べて荒井由実はいかにも女性的で、着飾ったオシャレなドレスの似合う、そんな歌に思えた。男は感覚よりも理屈を好む。ゆえにか、そういう歌詞でなければ心に突き刺さらない。ボブ・ディランの影響もあってか、当時のフォークシンガーの歌詞は「赤あげて白あげない」というような理屈まみれであった。拓郎の『イメージの詩』にこんな一節がある。

♪「古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう 古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう なぜなら古い船も新しい船のように新しい海へでる 古い水夫は知っているのさ 新しい海の怖さを…」。一体何をいわんとしているのか?本人すらわかっていない。「これが深遠で哲学的なのだ!」といきがっていたのが自分ら男たちなのだ。泉谷にも『春夏秋冬』などのいい歌詞がある。♪「春をながめる余裕もなく 夏をのりきる力もなく 秋の枯葉に身をつつみ 冬に骨身をさらけ出す」。

 


      「両雄並び立たず」という慣用句があるが、「四雄」はなおさらだ。

斎藤哲夫は名前の「哲」からして、深みのある詞を書いていた。『されど我が人生』には以下の一節がある。♪「長く暑い一日が終わり 振り返るときはすべて灰色に 心の中は荒れはてつきて 先を見ることさえ 苦しみを覚える」「まぼろしの道はいくつにも別れ この世にいくべきか ただ影はなし…」。斎藤はまさに歌う哲学者のようであった。男たちはカッコよさの偶像を彼らに求めた。荒井由実の歌詞やナリがいかにオシャレで都会的センスに満ちていようと、男の自分には受け入れらないものだった。

ところが『あの日にかえりたい』を聴いた時の不思議感が脳裏から消えず、彼女の『COBALT HOUR』というLPを、コッソリ買った羞恥を今も忘れていない。こんな曲を聴く自分が許せないと思いつつ、貧乏臭いフォークにはない洗練された歌詞の魅力に惹かれた。後年、元日本兵横井庄一がグアム島から帰還したときの第一声が、「恥ずかしながら帰ってまいりました」だったように、男は個々に羞恥の基準をもって生きている。何も恥ずかしいことではないといえど、本人にとっては羞恥となる。

 

   
  「荒井由美は男の心を歌わない」といってもそれは無理。そういう方向性の曲じゃない。 


荒井由実のレコードをコッソリ買う羞恥、それが当時の男の生業(なりわい=いきざま)であり、「男は斯くあるべし」という自尊感情だった。当時を回想するに、あの瞬間こそが「男らしさ」への決別のはじめの一歩と今も思っている。彼女の歌詞は「理屈」の「り」の字もない感性極まりないものだった。男が何かのこだわりを持って生きる理由が何かと問われるなら、それを「男の矜持」としか説明できない。女に女心の在処があるように男には男の在処があり、それを失うのは一抹の寂しさである。

「男らしさ」、「女らしさ」などという、先人の積み上げてきた「らしさ」というものが良くも悪くも崩壊してしまった現代である。いい例が自転車通学の女子高生の誰もが「男コギ」だ。半パンインナーを履いているので、何の問題もないということだろうが、ドキッとさせられるのは男だけではない。とある年代女性には違和感ありありだが、「内またコギ」が死語になったのは、「内またコギ」が仲間たちからバカにされるからだろう。「なによ、そのいいこぶりっこな自転車コギは?」などと。

 


   女が女らしくふるまうことが、"いいこぶりっこ“と茶化される時代になってしまっている。

数十年前は「がに股コギ」の女性が笑われたが、時代が逆転させてしまった。現代のあちこちに「らしさの崩壊」を見る。「男が男で、女が女だった時代」はまちがいなくあった。それを懐かしむのは、昔な人たちなのか。男の気っ風や、女性らしい所作は、過去の遺物とすべきものか。なぜ男たちはこんにち沈黙し、女たちが強くなったのか。『父性の復権』という本が発刊されたのは1996年だった。著者は東京女子大教授の林道義氏で、「日本ユング研究会」の会長も兼ねておられる同氏である。

家庭における父親の最大任務は、社会に羽ばたく前の子どもに社会のルールを教えることと氏がいうように、この役割が失われると子どもは判断の基準や行動の基本原理を身につけられぬまま成人してゆく。母の手に負えなくなった子どもが、いじめや不登校を起こしたり、利己的で無気力な人間が増えるのも、父権喪失時代の延長線上にあると林氏は述べている。遡って考えてみるに、日本という国に果たして父権というものが存在していたかといえば疑問。最初からありきとものとは思えない。

父権なるものは、女子どもがいて、こいつらを守らなければならないとの思いから自然に生じた原理ではと、経験的に感じとっている。ところが、妻が外に働きに出ることが当たり前となり、男たちは男の使命感としての義務が希薄になり、"男が頑張らねば"という死活的な問題がなくなったと同時に、父権も男らしさもすべてがかき消えてしまった。「髪結いの亭主」というように、男は基本的にぐーたらな生き物で、妻が働き始めた途端にこれ幸いとばかり、男の使命感をかなぐり捨ててダレてしまう。

要するに男を奮起させるのは女であり、妻であって、この点はヨーロッパの如き一神教としての男性原理とは違っている。日本の国は天照大神(アマテラスオオミカミ)という女性の国であって、暴れ回るだけで何もできない素戔嗚尊(スサノオノミコト)である。つまり、父親というのはある種のフィクションであり、それを現実に存在たらしめるのが妻の役割ではなかろうか。男を生かすも殺すも「女」次第というのは、自身の経験からもいえよう。男はとかくだらしない生き物として作られている。

 


      ”女がしゃきっとした男をつくる”といっても、限度もあろうし限界もある。

だからこそ、女性が女性としての存在感を示すことができるのではないか。女性にもだらしないのがいるが、双方がだらしない家庭は、足の踏み場もないゴミ屋敷となる。と、なんだかんだと書きながら、ふと表題はなにかとたどれば、「やさしさに包まれたなら」なので方向転換する。「やさしさ」は人に売り込むものではなく、心に秘めておくものだ。理由は、自分が納得するものだからである。さらにいうなら、心が満たされていれば人は自然にやさしくなれるように、充実感がやさしを生む。

「衣食足りて礼節を知る」というように、礼節とは他者へのやさしさと解釈できる。ならば、他人に奢り高ぶった態度がどうしてやさしいといえよう。不満の多い人は、自身の不満を相手にくみ取ってもらいたいのに、くみ取ってもらえない人のことである。だからか、それに殉じた行動をとる。「自分があなたに〇〇しているのに、あなたは返してくれない」「あなたに〇〇するからあなたも自分に〇〇してほしい」こういうことを言葉に出す人の心のゆとりのなさである。世知辛い人の代表格だ。

「やさしさに包まれる」の実感は、無償の愛の供与であろう。多少なりとも"恩着せがましい"ことをいわれた時点で、その愛は懐疑的なものとなる。荒井由美は『やさしさに包まれたなら』の歌詞に、発露の対象者を神と定めているところはさすがである。人間にはうさん臭いところがあるものだから、神のような絶対的な愛、無償の愛を授けることは至難である。神はまた人間のように欲張らない。神を信じない自分はやさしさを人に求めるのか?いや、それはない。人に何かを求めるのを戒めている。
 

   

  何という歌詞であろうか?男に書けるものではないし、理屈というより感性が書かせている。