「死後の世界なんてあるわけない。バカじゃないのか!」という人を見かけるが、自分もその種の一人だ。確かに強い言葉と思うが、「死後の世界なんてあるに決まっている。ないという人はバカじゃないのか!」などとはいわない。「ない」と確信するも否定する根拠は特にないので、「バカじゃないのか!」とまでは言い過ぎかもしれない。有名な「パスカルの賭け」ではないが、「もしかしたら死後の世界があってもいいのでは?」と思ってもよさそうだが、どうしてもあると思えない自分がいる。

「死」とは医学的に脳機能の完全停止をいうが、「脳死を人の死とする根拠はどこにもない」という学者がいる。「臨時脳死及び臓器移植調査会(脳死臨調)」の委員で、哲学者の梅原猛氏はメンバーの中で強硬な脳死反対論者であった。梅原氏はいう。「脳死臨調の多数派の意見は、脳死は人の死であるのは間違いないという。私たちは脳死の人を見に病院に行ったが、その人は人工呼吸器をつけられてはいるものの、すやすやと呼吸し、体も温かく、あたかも長い眠りについているようだった」。

 

   

梅原氏が脳死を死と認めない反対論者であった理由を、「哲学者であったこと」と本人も述べている。臓器移植は新鮮な臓器を必要とするために、死の判定をできるだけ早くしようとする。それに真向反対を唱える梅原氏は、「医学が進歩すれば人の死の概念が変わるというのは、人類文化の伝統に対する犯罪である」と主張する。こうした考えに対し、心疾患外手術の第一人者であり、脳死患者から二例目にあたる心臓移植を執刀した北村惣一郎氏は、「脳死を死と認めない国家はない」と反論する。

現代医学において心臓移植を成功させるには、心臓は拍動しているものの、人として個体死と認められる脳死者からの臓器提供が必要だ。医師が脳死を死とする最大の理由は、脳死が不可逆的病変(元に戻ることができない性質を持つ病変)であるということ。人工呼吸器の力を借りなければ呼吸ができない、いわゆる植物人間状態でありながらも、治癒の見込みのない患者を死とするかどうかは、医学以前の生命倫理に加えて費用負担の問題にもかかわってくる。したがって親族の同意が必要となる。

それ以上に重視すべくは生前の本人の意思による、「臓器提供意思表示カード」の存在であろう。この点については医師の大半が、「臓器提供は『慈悲の心』から行われるべき」と考えている。今後、回復することのない不可逆的病変である脳死という診断は、現代医療において信頼できうるものであることが重要となる。脳死を人の死とするか否か、賛否の渦のなかにあって、長年にわたる論議と紆余曲折の審議を重ねた結果、二度の修正案を経て「臓器移植法」は1997年10月16日に施行された。

とはいえ、新鮮な臓器があれば移植が成功するわけではない。外科医の技術や拒否反応の問題もあって、そうした限界がある以上、脳死移植は究極の医療ではないということになる。二十世紀とは、一口にいって「科学の世紀」と言い換えられるが、正確にいうなら「科学という信憑が全世界を席捲した世紀」と言い換えられよう。世界の隅々にまで科学の光明が行き渡り、呪術や非合理な因習などに頼ることもなくなったが、それでもスティーブ・ジョブズのように西洋医学を拒否する者もいる。

 



彼は禅思想に傾倒し、禅の力によって癌を克服できると信じたが、最終的には執刀手術を受けたものの病巣は悪化していた。「宗教は阿片」と断じた思想家もいたが、宗教が阿片であるなら思想はなんであるか。様々な宗教があり、様々な思想が人に影響を与えている。例えば隣人愛を説くキリスト教は世界的宗教、普遍宗教といわれるほどの信者を確立させている。禅思想などの仏教も、共同体の道徳や慣習を否定する普遍宗教といえよう。仏教で身内への愛着はキリスト教以上に厳しく斥けられる。

科学と宗教の対立は今なお存在するが、二つの根源的な違いを神の概念に見る。宗教批判の先駆者であるリチャード・ドーキンス著『神は妄想である』に対し、ドーキンスと同じオックスフォード大で分子生物学を学んだ後に神学者となったアリスター・マクグラスの批判書のタイトルは『神は妄想か?』である。「神は存在し、宗教は廃されるべき悪ではない」という証明は一切なされず、「頑なな実証主義は時代遅れ」と議論を避ける。ドーキンスのいう「宗教は盲従の強要」にも黙するばかり。

 

 

聴衆の質問に冷徹に回答するリチャード・ドーキンス - YouTube

マクグラスはイエスの寛容さについて述べ、それによってキリスト教的道徳への貢献を主張する。もしくは、信仰による健康効果(心の安寧による免疫力の向上)などを取り上げて有効性を述べる。それこそが神の存在の役割であるといわんばかり。神の存在を否定する者であっても、趣味や文化的な事柄を通じて心の安寧を得ることは可能であろう。神の存在や死後の世界に対する見解を科学に委ねるなら、まずは科学の基本的な考え方として「観測できないものはないと考える」という大前提がある。

 A…「この部屋の中には霊がいる」。
 B…「では見せて貰おうか」。
 A…「残念ながら、霊は目視できない」。
 B…「ならば触って確かめようじゃないか」。
 A…「霊を触ることはできない。何でも通り抜けてしまう」。
 B…「ならば赤外線センサーで観測しようじゃないか」。
 A…「特殊な物質なのでそれでは観測できない」。

 



このように観測できないものを科学とみなさない。こちらの世界に何の干渉も与えず、影響を及ぼさぬものを「ない」と考えるのが科学だから、霊魂などは科学で扱わない。「科学万能」否定論者もいるが、科学で扱えない物は結構ある。実際に死んでいないのに死後の世界を体験した人を臨死体験者といっているが、幻覚や思い込みの可能性もある。「信じるかどうかは好き好きだが、実際に存在するとなると不確実で曖昧なレベル」と言わざるを得ない。幽霊も再現性が可能なら別だ。

世間を騒がせた小保方晴子氏のSTAP細胞も、再現性(こういう条件の時にこのような条件が起こる)が認知されれば科学として認められた。「私は何十回も再現した」と彼女はいうが、そうであるならなぜできない?何度やってもできなかった。現象の発生だけでは未開であるのに、それすらできないなら「彼女はウソをついていた」事になる。そんな彼女のウソを真に受け、科学誌に論文を寄稿した世界的科学者に恥をかかせることになった小保方氏は、笹井芳樹氏が自殺した理由すら理解できていない。

「数十回再現した」は言葉だけだった。来てもいないのに「狼が来た!」と世間を騒がす狼少年だが、「来た」と信じるのはウソではないのか?答えは「NO」だ。信じる根拠の確認ナシの放言は「ウソ」と認定される。笹井氏は小保方氏への愛情(もしくは恋情)から判断を誤った。笹井氏は「あなたのせいではない」と遺言を残しているが、科学者としての自らの不覚を意味する。「傾国の美女」に翻弄される男の悲哀は歴史が示すように、将来を嘱望された科学者の心身を奪った女の魔力といっておく。