同世代の訃報が目に入るこのごろ。普段はそれほど死を実感することもないが、訃報記事を目にしたときは、「そうか!我々もいつか死ぬんだ」となる。「自分も…」ではなくて「我々」なのは、「自分だけが死ぬのではないので、これはどうしようもないこと」と自らに言い聞かせているのかもしれない。まだ秒読みの段階ではないが、死の準備というものがあるのなら、やっておくべきかも知れぬが、「何をどうする?」といったところで、「何をどうしていいのやら」が正直なところ。

それほどに、"しておかなければならない"ということもないのだろうし、してもしなくてもいいということばかり。世の中には大病を患ったままに、死の淵を彷徨う人たちも少なくないかもしれぬ。朝に目が覚めた時、「今日も命がつながってよかった」などと思うのではなかろうか。「人間はなぜ死なねばならないのか?」というような根源的な問いかけをすることもなくなった。おそらくは答えが見つかったからだろうが、モンテーニュのいう「生きているから死ぬ」いうのが明快な答えかも知れない。

 



ただし、「私が私自身の死を知る」ことはない。「気づいたら死んでいた」ということもない。何の意識もないままに人は寿命を終える。死とはこの世からすっかり消えてなくなることだが、理不尽でも何でもない。自分の死をどれほど空想したところで、人が自分の死を認知することは絶対ありえないが、自分の死を自覚しようが認知しようがすまいが、死んでしまった以上はどうでもいいことか。「死ぬのはイヤだ」という人は大勢いるが、言っても仕方ないないので言わないようにしている。

イヤにかかわらず死ぬからだ。「人はなぜ死ぬのがイヤなのだろうか?」について考えたことがある。いくつかの答えがでたが、これが一番と思ったのは、「死ぬことによって自分がもはや灰というゴミになるから…」というものだった。せっかく人間に生まれて、色々と人間にしかできないことをしてきた。楽しいことだけではない。喜怒哀楽のすべてを体験した。それがもはや何一つできないというなら、死はイヤに決まっている。自分という存在がある日を境に跡かたもなく消えてしまうのが死。

確かに死はいやだが、だからといって生まれてこなければよかったとはならない。すべての人間は限りある命をもって生まれ、多くの人が歴史の中に消えていった。清少納言も兼好法師も信長も西郷隆盛も、あげればキリがないほどにみんな死んでしまった。歴史に名を残さぬ一介の市井人も、善人も極悪人も同じ命を共有し、遂には死んでゆく身だ。彼らが死んでも世界は続いているように、自分や自分たちが死んでも、世の中は何事もなかったように続くが、それをこの目で見ることはできない。

残念だがそれが死で、誰もが受け入れなければならない厳粛な事実である。ゆえに死を理不尽とするのは正しくない。「死ぬまで生きる」しかわれわれにはすべがない。岸本英夫という宗教学者に『死を見つめる心』という著作がある。宗教研究に一生を捧げた岸本氏だが、断固として来世や死後の世界を否定するところは不思議だった。宗教というものは本来、来世や彼岸や死に関わるものというのが一般的であり、死を見つめながら、実は死のかなたの来世を見つめているということになる。

 

      

岸本氏は宗教学者にして来世を否定した人。だから、彼の『死を見つめる心』というのは、純粋に真実としての死を見つめられるということになる。岸本氏はガンと十年間たたかい、何度も手術をし、ガン細胞転移の恐怖から身をひるがえすためにシャニムに仕事をしたのだ書いている。しかるに彼の著作『死を見つめる心』は、死ではなく生を見つめてきたことになる。考えてみれば、死というものは見つめられるものではないわけだから、来世を信じない人だけが本当の死をみつめることができる。

宗教を客観的に研究してきた岸本氏は自らの死に直面し、「死後の世界を信じられたらどんなに救いになるだろうか」と思いながらも、それを信じられない自分の知性をひそかに喜ばしく感じたりもしたという。「老い」というものに反発する人は多い。特に女性にとって老いというものがどれほど過酷で悲惨であるかを小野小町の歌にみる。老齢というものは、若い時に比べて圧倒的に豊かであると実感する。「豊か」の意味は人間として出来上がっている。ラ・ロシュフーコーはこんな風にいう。

 



「人は老いるにつれて、次第に愚かにもなり賢くもなる」。確かに老人は、ある面ではひどく愚かでもうろくしている。ところが、別の一面においては賢明だったりする。「何か悩みがありますか?」と聞かれたことがある。即座に「ないです」と答えた自分に「本当ですか?いいですね」という。「あなたはどんな悩みがあるんです?」と聞かなかった。他人の悩みを聞いて実感も沸かず、どうにもならない。死を考えるほどに深い苦悩を背負った人にはそれを解消するために自死を選ぶ。

これは生きることより悩みの方が勝っているということだ。「生きることに支障のでる悩みって何?」というより、メンタルの弱さが、生きることを妨げている。死んで解決するということなどない。それは解決というより逃避である。「死は憎むべき殺し屋」である筈なのに、自死する人の多くは死を美化している。死を恐れるから人は死なないでいれるのに、死を美化するなら死はたやすいことになる。他人から何かをされるとし、何をされるのがイヤかといえば、命を奪われることではないか。

 



なのに、自分の命を惜しげもなく捨ててしまう人がいる。自殺に罪はないが、もしも罪をこじつけるなら何であろうか?自己決定権の誤った判断というべきか?確かに自己決定は生命という基盤の上に成り立っている。その意味において、究極的には生命の支配下にある。しかし事実上、生命はその支配下にある個人人格の自己決定によって消滅させられうる。それでも真に生命は特別の地位を占めるものなのか。おそらく自殺には何らかの罪はあると思われるが、現実に罰則がない以上、規定は難しい。

心中という行為は相互自殺ということになる。愛する相手をこの世において去るのは罪の意識を感じる。ならばと、互いが罪を分け合い相殺する。同意の心中もあるが、無理心中というのは一方的だ。「この子を残しては死ねない」というのは、何とも傲慢で身勝手な思い込みであろうか。「母はゆえ合ってこの世から消えるが、あなたたちは立派に生きて欲しい」とすべきである。年端も行かぬ子を道連れにするなどは、許し難い蛮行としかいいようがない。「勝手に一人で死ね!」と言いたくなる。

「この子は自分が生んだ自分の所有物」という考えは、思慮の欠片もない母親としての傲慢である。父子心中というのは、男にとっては発想すら沸かないことだ。もっとも、西洋にあっては「子どもは神からの贈り物」という宗教観もあって、子どもの人格権を親が犯すなどは許されないことになる。本人が目的意識をもって勉強したければすればよいが、勉強嫌いな子を強要するのは完全なる「人格無視」ということになる。この世に生を受けた子がどういう生き方を選ぼうとも、親は尊重すべきかと。