5歳から車椅子生活で現在43歳の女性とメールで見分を広めようとしたが、「天は人の上に人を造らず」といったときに、「難しいのでよくわかりません。やさしい会話を望みます」といってきた。「あなたが何を知り、何を知らないか把握はできないので、分からないことは無視すればいい」と返すと、「分かったよ。難しくて分からないない時はそうさせてもらう」といってきた。が、これを最後にもう返すことをしなかった。誰にも知らないことはあろう。問題はその対処法にある。

彼女は「難しいことをいう罪はあなたにある」という。彼女の無知を責める気はないが、福翁の有名な言葉を知らない40代に驚いた。文句を言う前に、ネットで調べて知識を得て軽い対処をすればいいところを、知らない私に罪はないという態度に気持ちが失せた。そんなに難しいことをいったわけではないが、そういう対処もせずに苛つかれても困る。だから終わった。知らないことをいわれて立腹する女性は少なくない。苛つくのもわかるが、知らない自分にも問題ありと考えないのか?

 

    

なんでも相手の罪にして自らを免罪する。学ぶ気持ちの欠片もないこうした相手との真摯な交流はおそらく無理。才媛である必要はないが、何も知らない同士との会話である以上は知識量の差も含めて相応の対処が必要になる。難解なことをいうべきでないのは当然として対処していた。人生は苦労の絶えぬものだが、その苦労によって磨きあげられる人と、委縮してしまう人がいる。生育環境のこともあろうが、根本はやはり本人の心がけ次第であろう。これは夫婦の間においてもいえることだ。

互いに人間としての迷いや至らなさを察し、苦労を分かち合うといった境地がのぞましいが、それがごく自然にできるまでには、互いに人間として成熟していなければならない。男は多かれ少なかれ、手の届かないのを承知で、憧れの人を心内に棲ませるところがある。身も蓋もない言い方をすれば社会の勝利者たり得る道というのは、男の勲章かもしれないが、文学の問題に関するかぎり、こうした欲求は自己実現というより自己破滅に近いかたちであらわれ、美しくも悲しい物語をつくってきた。

 



西洋の古典にならえば、ダンテの『神曲』におけるベアトリーチェ、ゲーテの『ファウスト』のグレートヘン、シェイクスピアの『ハムレット』におけるオフェリアなどが有名で、中国の『史記』には項羽と虞美人の悲劇がある。日本の古典ならさしあたり『源氏物語』の中の女性に見る。紫式部にとって、あるいは光源氏にとって、永遠の女性は誰だったかといえば、源氏の妻の紫の上がそうであろう。また、現代文学に例をとるなら、高村光太郎の『智恵子抄』の長沼智恵子が頭に浮かんでくる。

谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』などもあげられようか。初期の島崎藤村による恋愛詩に歌われている女性も、失恋によってこの詩人の胸に刻み込まれた忘れ得ぬ女性であった。高校の授業で初めて『智恵子抄』を知った自分は、自分にとって理想の女性としてほのかな恋心を抱いた。いうまでもないが、文学作品というのは「創作」であり、あくまでも作品のうちにとどめる以外にない存在かも知れない。しかし多くの人に愛読されるのは、我々の心のうちに永遠の女性への夢があるからではなかろうか。

 

       

永遠の女性とははじめから神聖で美しい神さまのような存在ではなく、むしろ不幸な女性である。『源氏物語』の紫の上の生涯もまさに苦労の連続であった。一夫多妻の時代であったが、源氏は様々な女と関係を持ち、そのたびに紫の上は悲しみ、嫉妬し、ある時は出家したいと願っていたほどだ。しかし、そのすべてに堪えぬいて、夫と自分が様々な流転を経ながら生きてきたことへの「あはれ」を感じ取り、自分の敵である夫の愛人や若い妻とさえ仲良く語り合う境地にまで自己を高めていった。

それは紫の上が人間的に無比といえるほどに素晴らしい女性であったからで、源氏も紫の上がこの上ないすぐれた女性であることを理解していた。二人はあたかも友人であるがのごとく、それぞれに経てきた過去の苦しみを語り、苦しみを共に分かち合う場面が感動的である。『源氏物語』の大長編を読むのは骨が折れよう。ならばとそのなかから、『若菜』(上下)だけを読むのがよかろう。ここには今述べたような作品の一つの頂点が描かれており、物語全体を通じてもここが中心であろう。

 



「ものはかなき身には過ぎにたる、よその思へはあらめども、心に堪へぬ物歎かしをのみ、うち添ふや、きは、みづからのいのりなりける」(不束な身には分に過ぎた境涯にいるものと、余所目にはみえましょうけれども、胸の中には堪えられない歎きばかりが殖えてまいります。それが自らのためにはお祈りのようになりまして、気が張り詰めておりましたので、今日まで生きてこられたのでございましょう。)紫の上の述懐だが、自分の経てきたあらゆる嘆きが生きるための祈りとなったという。

紫式部は力をこめてこの前後の紫の上の容貌や言動の美しさを語り、同時に死の近いことをほのめかしている。式部は紫の上の死に際し、死に顔をこの上なく美しく浄化することで彼女の永遠性を告げているようだ。光源氏にとっても紫の上の死とともにやがて光源氏の生も次第に傾き、永遠の女性としての紫の上の跡を追うように死んでゆく。現代文学の例として先にあげた高村光太郎の『智恵子抄』を考察してみる。この詩集は光太郎と智恵子の出会いから死と死後迄含めた恋愛詩集といってよい。

 

 

が、一般的な恋愛詩集とはかなり趣が違っている。ここに一貫しているのは男と女の愛の浄化ではなかろうか。自分の愛人であり妻であった人を、こういうかたちで永遠化したのはなぜなのか?光太郎はこのように記している。「私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の頽廃生活から救い出されることができた」。彫刻家である夫と画家を志す妻と、互いに芸術を通してむすばれ、各々の製作について語り合えることは、人生の幸福といえるかもしれない。

しかし、お互いに製作に向かうことは同時に互いに孤独になるということでもある。愛は信頼といわれるが、いかなる信も愛も芸術家の製作の持つ孤立性をどうすることもできない。こうした悩みと、妻としての雑事との矛盾がはげしくなり、智恵子はついに精神を破綻させてしまう。狂人となった智恵子は、長い病床生活を送ったのち死んでしまった。『智恵子抄』はこうした悲劇のうちに成立したものである。永遠の女性とは不幸から生まれるもの。紫の上も智恵子もそこに我々の夢を宿している。

『ファウスト』はゲーテ最晩年の作品だが、このIQ200超の天才は、80歳を越えるまで恋をし、生涯に50人もの女性と恋愛したとされる国際的色好みで、そんなゲーテが女性に対する思いの真実をこのように書いている。「世界の真理は女性のあそこに在る」。どんな真実もどんな真理も、女性のあそこに及ばないことを、何ものにも変えがたい永遠の存在として、『ファウスト』は女性を賛歌した作品といってもよいが、誰か一人に縛られたくないという男の潜在願望という風に聞こえなくもない。