「永遠の女性」というのは存在する。言葉に違和感がないわけでもないが、似た言葉には「永遠の処女」というのもある。「永遠の若大将」というのはあるが、「永遠の男性」といういい方はあまり聞かない。「永遠の童貞」もない。いずれも男たちによる造語と思われるが、男にとって女性の存在が特別なものであることを示している。「男にとって女性がなんであるか?」の前に解明しておくべきことは「男とはいったいなんであるか」である。すぐに浮かぶのが英雄・豪傑という言葉。

これが自分にとって男の象徴的イメージだ。神代の昔から英雄による退治伝説は少なくない。ギリシャ神話ではペルセウスがアンドロメダを救い出す話はあまりにも有名。日本神話にはスサノオのヤマタノオロチ退治があり、桃太郎の鬼退治物語がある。スサノオはヤマタノオロチを退治して剣を得、娘を救い出した。桃太郎は鬼を退治して財宝を得た。一説には鬼が攫っていた娘を取り戻したとある。男性の象徴としての剣、一生暮らせる金銀財宝、そして男の心を支えるのが女性である。

 

    

男性はこのような象徴に向かって動き始める。それが小学3・4年生、10歳前後である。親から離れ、友達と遊び、自ら以外の家庭を知る。自我が芽生えるこの時期は、物事を客観的に見て自らのアタマで考え始める時期でもある。思春期を迎えて大人の世界に向かって生きはじめるが、社会に出て生活に十分な富と得ることは難しく、権力の座に就くことはさらに難しい。しかし、永遠の女性に出会える可能性は等しく誰にもある。つまり男にとって永遠の女性とはどういう女性であろう。

やはり特別の存在であり、そこらを歩いている女性とは言い難い。何をもって永遠の女性というのか?ずっとずっと愛し続けることのできる人をいうのか?定義は難しく、愛し続けることも難しい。「愛と憎悪は表裏」というように、愛の裏には怒りが存在する。最初は愛を感じていても、うるさくもしつこく絡まれたり、飽きてくると怒りは爆発することもある。その先には性格の不一致として離婚が待っている。そもそも性格の一致なんてことはあり得ないが、我慢を超えると結婚は終焉する。

 



愛が頼りないものだとすれば、人を繋ぐ何があるのか?それが協調であり協力である。互いに助け合いながら心を開き、経験を語り合い判断を求める。相手の判断が間違いないものであるなら、安心して支え合い生きることができる。われわれは生きていくうえで様々な経験をするが、そうした経験に基づいて正しい判断ができるなら素晴らしいことであり、偏見にとらわれず素直で人間的判断できることが望ましい。二人にとってよい判断を与えてくれる信頼に満ちた男であることを女性は望むもの。

男も実はそういう女性を望んでいる。人知を尽くして自ら判断したことに共感し、認めてもらえることにあるなら、深い安心感と生きる喜びを与えてくれることになる。単純ではあるが、こういう女性は男にとってのよきパートナーといえる。そういう女性さえ居ればお金や地位に固執することもないが、男には闘争本能や野心がある。沢山の女性を愛したことで知られるカザノバは、永遠の女性について次のように書いている。「彼女は本も読んでいたし趣味も良かった。その判断には狂いがない。

 



そしていかなる偏見もない彼女は、何か重要なことを話すときにも必ず微笑をたたえて、いかにもたわいのないことのように見せかけながら、誰にもわかるように話した。彼女はそうすることによって、才気の足りないものに才気を与え、その代償として誰からも熱愛された。才気渙発なる賢明女性は、その才気によって、非常に男の心を燃えたたせ、ついにはその男に他のものは何もいらないとまで思わせる」。これが女性を知り尽くした男にとって理想とする女性観というところが興味深い。

才気のある女性は、「美よりも才気をとる」とカサノバは書いているが、これが多くの女性を体験した男の求めて止まぬ女性像である。美しさそのものは生活する上において役に立つことはないが、才気をそれほどに必要とするのは心理学的に以下のように説明できる。「才気」とは、素直な客観性に裏づけられており、客観的で素直な判断こそが人の心に大切なのだ。主観しか口にしない女性は、他人の意見を理解せずに持論を押し通すが、自分を客観的に見ていられる女性はなかなかいるものではない。

このように、客観的になれる自分を誰かと共有できることは大切であり、それができるために人は謙虚でなければならない。男は、時として信頼できる男の前では謙虚になることができる。しかし、いつもそれが可能とは限らないが、心を許す女性を前にして男はかなり自分をオープンにすることができる。男が女に心を開くのが男の本性であり、それを上手く利用されると寝首を掻かれることにもなりかねない。しかしながら、才気ある女性も強い自我を持つゆえに共に過ごすことが難しいことがある。

だから、カザノバが言うように、「必ず微笑をたたえて、いかにもたわいのないことのように見せかけながら…」という点はとても大切といえる。そこには理性の強さだけでなく、才女ぶらないやさしさを見ることになる。真に才気ある人間は人とぶつかり合わぬよう、控えめな物言いをするもので、やさしさに包まれた偏見のない素直な人間的な判断が女性に求められる。「ところ変われば品変わる」というが、カサノバとゲーテの考えは異なる。『ファウスト』における「永遠なる女性」とは何か?

 



ゲーテの大作『ファウスト』の終幕の場面で歌われる、神秘の合唱の中での「永遠なる女性」という言葉は、直接的にはファウストの最愛の人であるグレートヘンや、ギリシア神話の美女ヘレネ、そして、聖母マリアといった女性たちに象徴される永遠なる愛の力のことを意味すると考えられている。こうした『ファウスト』において提示されている「永遠なる女性」という概念は、それをより抽象的な概念としての解釈を可能とするなら、ユングの心理学のグレートマザーに近い概念といえなくもない。

グレートマザーは、そうした人類全体の意識に共通する根源的イメージとして挙げられる概念であり、普遍的な存在としての「偉大なる母」、「母なるもの」といった存在を指す概念ということもできる。現実の世界における個別の母親や女性といった個々の具体的な存在を超えた、普遍的で永遠的な母性のイメージとして捉えられ、そこからすべての存在が生み出されると共に、すべてのものを優しく包み込み、守り育て、救済するという無限の生命力と永遠の愛の力を持った存在となる。

『ファウスト』における「永遠なる女性」というのは、ファウストの魂を悪魔の手から守り、その魂を自らの内に包み込むようにし、天上の世界へと引き上げ救済していく力の象徴として語られる。すべての存在を自らの内に包み込み、永遠なる安らぎと救済を与える聖母のような存在としてのグレートマザーに共通するイメージと捉えられている。オードリー・ヘプバーンの晩年の生き方を眺めながら、彼女が人間として、女性として目指したものが「グレートマザー」だったのかも知れない。

 

 

映画界を沈黙させたオードリー・ヘプバーンの夫の正体 - YouTube