とても不思議な一本の映画がある。オードリー・ヘプバーン主演、ブレイク・エドワーズの監督作品『ティファニーで朝食を』(公開は1961年)。この映画はアメリカ人作家トルーマン・カポーティの同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化された。カポーティは失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたオードリーを、「ひどいミスキャスト」と公言した。カポーティがホリー役にはマリリン・モンローが適役だと考えていたためだった。

こうしたことはオードリーの知るところとなり、撮影に入る前に彼女は「この役に必要なのはとても外交的な性格だけど、私は内向的な人間だから」と、エージェントに不安を語っている。しかし、同作品で高く評価されたオードリーは、1961年度のアカデミー主演女優賞とゴールデングローブ賞にノミネートされた。これ以降ホリー・ゴライトリーはオードリーを代表する役と言われることも多く、清純派の旗手オードリーが清純でないホリーを演じて以来、映画の中の女性像が変わったと言われている。

 



自分が『ティファニーで朝食を』を不思議な映画と思う理由は、作品の善し悪しやオードリーの演技についてではなく、何はともあれ冒頭シーンそのものにある。オードリーが身にまとうジバンシィのデザインによるリトルブラックドレス(シンプルな黒のカクテルドレス) は、20世紀のファッション史を代表するリトルブラックドレスであるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだと言われているのは間違いのない事実であるけれど、自分にとって衣装の問題も「不思議」の範疇とはならない。

1960年のニューヨーク。夜明けの五番街に一台のタクシーが宝石店の前に止まった。サングラスにブラックドレスに身を包んだ女性が、ティファニー宝石店のショーウィンドウの前で、コーヒーを片手にクロワッサンをぱくつくというミスマッチがいかにもリアルである。この女性は一体に上品なのか下品なのか?このホリーという女性は、自由奔放な女性であることが分かってくる。夜も明けぬ人のいない五番街にめかし込んで現れるなど、そんな男は皆無であろうが、それこそがまさに女性なのだ。

 



Breakfast at Tiffany's Opening Scene - HQ - YouTube

女性という得体の知れぬ生き物は、こういうことに意味を見出し実践する。男にとって女性という生き物の謎というのか、不思議さというのか、それ以外に思うところはない。「独り部屋にいながらに着飾るのが女性」と聞いた時、同じように女性の生態の不思議さを実感したことがある。女性に生まれずして女性は分からないというのが、経年で得た女性に対する答えでもある。清純な顔立ちにして実態は高級娼婦というのは、ヴェルディの歌劇『ラ・トラビアータ 椿姫』を実感させられる。

カポーティは当初、ホリー役をマリリン・モンローに決めていたが、モンローは、長く続いたセックスシンボルのイメージからの脱却を考えてオファーを断る。ならばと、当時ハリウッドで人気を集めていたオードリー・ヘプバーン。オファーが来た際、オードリーは30歳で第一子を身ごもっていた。今まで、純粋で少女のようなキャラクターばかりを演じていたので、新しい役柄に挑戦してみたいと考えていたオードリーは、ホリーという、天真爛漫で複雑な内面を持った女性に照準を合わせた。

 



Verdi: La traviata (excerpt) - YouTube

小説版のホリーは娼婦役だが、オードリーの事務所は脚本からそういうニュアンスを省くよう要請した。よって、映画の中でのホリーはいつもお金持ち男性といるよう描かれてはいるが、彼女が高級娼婦であると決定づけるようなシーンは一切ナシ。また、小説版にはホリーがティファニーの前でクロワッサンを食べる有名なシーンもなければ、ティファニーでお菓子の景品の指輪に名前を彫ってもらうロマンティックなシーンもない。いずれもが、オードリーのために付け加えられたシーンである。

オードリー・ヘプバーンほど美しい女性はいない。確かに世界中には美貌を蓄えた女性は数多く、ハリウッド女優だけでも幾人かの名をあげられるが、ショートカットがこれほどに似合うハリウッド女優はそうそう見当たらない。『ローマの休日』における彼女の短く切ったヘアスタイルは、王女の身分を捨てたものだった。襟足長めのショートカットに加えて襟足全体にパーマかける。前髪も内巻きにゆるいパーマをかけた感じにみえるが、素材が問題なので誰がやっても似合うという保証はない。

 



少女時代に大人たちに助けられた瞬間を思いだしたオードリーは、「力なく助けてもらっていた子どもから、愛で助けてあげる大人になる」という決断をする。以後彼女は5年間で50回以上貧困国に向かっている。「子どもを無視し、子ども時代を無視するのは、人生に背を向けるのと同じ。子どもは自ら声を出すことができないので私たちが代わりにしなければならない」。オードリーに共感する人たちは後をたたず、ユニセフの義援金は数倍になる。当時こんな言葉が社会をにぎわした。

「私たちが一番美しいオードリーに会ったのは、『ローマの休日』のなかではないアフリカでした」。オードリー人生最後の映画は、スピルバーグ監督による1989年作『オールウェイズ』で、ここでオードリーは天国に行く道で死者を案内する天使の役を演じている。主演俳優はキャスティングにオードリーが選ばれたとき、「この方以外に誰が天使を引き受けることが出来よう」と述べたという。短い出演にもかかわらず10億もの出演料を受け取ったオードリーは、全額をユニセフに寄付している。

 



1992年9月終わり、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ戻った彼女はしばしば腹痛に襲われる。専門医の診察を受けたが原因不明のまま、精密検査のため10月にロサンゼルスに渡った。10月末にシダーズ・サイナイ・メディカル・センターに入院し、腹腔鏡検査の結果、腹膜偽粘液腫と診断された。5年ほどかけて成長した癌が転移し、小腸をも薄く覆い尽くしていた。11月1日に手術が行われ、病院の広報は「悪性の腫瘍は完全に切除され、どの臓器にも転移はない」と発表された。

ところがゴシップ週刊誌に、「彼女の癌は手の施しようがなく、あと3か月の命」とすっぱ抜かれた。最後の夫ウォルダースと息子のショーンとルカは、オードリーは快方に向かいつつあると声明を出したが、ウォルダーズは「われわれはウソをついていた」と後に語っている。術後は病室に家族や友人の他、エリザベス・テイラーやグレゴリー・ペックが見舞いに訪れた。1週間後には退院し、オードリーの親友コニー・ウォルドの家に移った。傷口が塞がってから抗がん剤による化学療法が始まった。

 



化学療法を受けることに家族は希望をつないだが、数日後腸閉塞となり、12月1日に再入院した。病院に戻る為にオードリーとショーンが準備をしていた時、「とても怖いのよ」怯える心の内側を1度だけ見せた。同日再手術が行われたが、腫瘍はすでに手の施しようがなかった。オードリーの余命がわずかと知る家族たちは、彼女の希望であるクリスマスをスイスの自宅で過ごすことを決めたが、普通の国際便は無理と判断され、知人は所有するプライベート・ジェット機をオードリーのために手配した。

病が進行するにつれて長い時間を眠って過ごすようになり、最後の2日間はいっときに数分以上起きていられなかった。そして1993年1月20日の午後7時、オードリーはスイスのトロシュナの自宅で、63年の人生を終えた。短くも美しく燃え尽きた生涯である。オードリーの葬儀は、1993年1月24日にトロシュナの教会で執り行われ、トロシュナを一望できる小高い丘の小さな墓地に埋葬された。死は生あるものの必定であり、刹那の時間の合間を縫って生きる我々にとって、死は生きる目的かも知れない。