「16日午後6時14分、JR博多駅前の路上で、30代の女性が包丁のような刃物で刺された。警察によると、女性を刺したのは30代~50代の男で、黒い上着を着ていた」。と、これが事件の一報だった。以下は目撃者の証言だ。「通りがかったときに、(自分の)後ろで事件が起こっていました。悲鳴がして何かおかしいなと振り向いたら、男が女性の上に乗りかかるようにして、何かを振り下ろしている、そんな状態でした」。これとは別の目撃者はいう。「相当な回数、振り下ろしていました。

近くにいた会社員みたいな方が、途中制止するような声をかけていましたが、(犯人は)意に介さず何回も、10回近く刺しているように見えました。女性の悲鳴は聞こえましたが、男は全くの無言で、その後立ち去っていきました。小走りというか、ほぼ歩きみたいな感じです。決して痴話げんかのようなものではなく、男が一方的に女性を刺していました」。女性は病院に搬送されたが、40分後に死亡が確認された。警察は、殺害されたのは福岡県那珂川市の会社員・川野美樹さん(38)と発表。

 



川野さんを襲った男は逃走中。被害者に“馬乗り”になり、刃物を振り下ろしていたという光景のおぞましさを想像するだけで胸が痛む。捜査本部は18日、元交際相手の31歳の男性を任意同行して事情を聞いていることがわった。18日は川野さんの39歳のバースデーだったこともあって、事件現場には、花を手向けに訪れる人が後を絶たなかった。本来なら18日に誕生日を迎えるはずだった川野さん。事件前には交際男性とのストーカー被害を警察に繰り返し相談していたという。

警察は18日、川野さんの交際相手の男寺内進容疑者(31)を殺人容疑で逮捕した。16日午後6時12分ごろに川野さんとみられる女性が寺内容疑者と歩く様子をとらえた、防犯カメラ映像の存在も判明しており、それらから事件はこの7分ほど後に起きたことになる。関係者によると、川野さんと寺内容疑者は同じ飲食店グループで働く中で交際に発展したというが、このグループでは従業員同士の恋愛は禁止されていた。川野さんは22年10月ごろから、警察に数回相談しているようだった。

 



11月には寺内容疑者に対して、ストーカー規制法に基づく「つきまといの禁止命令」が出されていた。寺内容疑者の自宅アパートには警察官が訪ねてきたと、寺内容疑者と同じアパートの住人はいう。「去年の10月とか11月とか、警察が隣の方について「知りませんか?」「最後に見たのはいつですか?」などと聞かれました。彼は超イケメンで1回だけ話したことがありますが、普通に優しそうな感じで、たまにちょっと酔っぱらって、廊下で言い合いや喧嘩してるようなこともありました」。

現在のところ、交際もつれの線が強いようだが、殺人にまで行くところが男女の仲である。よほどの無差別殺人は別として、殺人には動機が存在するが、人を殺すほどの理由や動機というのが果たして存在するのかなどは、一般人理解としてむつかしいが、現実に殺人がなされるわけだから加害者にとっては理由となり得る。「万引き」の動機もわからぬ自分に、殺人動機など分かるはずがない。京都大学名誉教授の間宮陽介氏が「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いについてこう述べていた。

 



「愚問と知りつつ、哲学的装いをもつ問いに対しては、哲学的装いをもって答えざるをえない」。殺人であれ、自殺であれ、「何もかも覚悟のうえでそれを選んだなら、その人はそれをする『自由』がある」といってよかろう。自由とは善に限らず、悪についても等しく適用される概念であり、端的な事実である。「何もかも覚悟のうえでそれを選んだなら、その人がそれをしてしまうのが端的な事実であって、だれもそれをとめられない」のはそのとおりだ。実存哲学の旗手のサルトルはいう。

「人間は自由の刑に処せられている…。刑に処せられているというのは、人間は自分自身をつくったのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界のなかに投げだされたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである」。サルトルの言葉の意味は、自由とは自分の好きなように行動することで、勝手気ままな振る舞いをすることではない。人間は他者との関わりのなかでしか生きていけない以上、各人の奔放で気ままな行動は許されない。

もし個人の好き勝手な行動が認められることになるなら、それは他者の自由・権利の侵害、ひいては社会の崩壊をもたらす。 殺人は他人の生命生存権を奪うことになる許し難い行為といわねばならない。何人も他者の命を奪ってはならないということを突き詰めるなら、死刑は国家犯罪ということになり、このことが死刑廃止理由としてヨーロッパ全土に広がっている。「他人の生命を奪った者は、自らの生命を差し出さなければならない」と、これは命を奪われた者の切なる怒りであろうか。

死人に口はないので、残された遺族の思いを国家が代弁し、執行することになる。川野さんのように、39歳寸前まで生きて来て、何の理由があったとはいえ、虫けらのように体を何度も刺されて人生を終わってしまうことが現実に起こっている以上、

凶暴な人間が野に放たれていることになる。どれほどの痛みをこらえていたのだろうか、まさに悪魔の所業である。人の足を踏みつける者は、自分が踏みつけられない限り痛みを実感できないというが、針で刺しても痛いのにヒドイことをする。

 



苦痛とは、生命の安全が侵害されるときの生命そのものの抗議反応である。ナイフで刺されれば痛いし「お願いだからやめて!」と、必死で訴えたはずだ。それは自分が死ぬのではないかという以前の、恐怖と痛みの回避を相手に懇願することだが、聞く耳をもたぬ男に無慈悲に無視され、何度も刺されてしまった。人間というのは何というヒドイことができるものだろうか。小さな傷であっても、生命の働きを弱めるし、大きな傷は生命の働きを奪ってしまう。誰がこんなことをされたい者がいよう。

殺人事件報道があったときに思うことがある。素朴な疑問といっていい。それは、殺人加害者が人を殺そうとするとき、「後先考えないのだろうか?」ということ。高校二年の自分は、一度だけ台所の包丁を机の中に忍ばせていたことがある。母に対する怒り冷めやらぬままに、「もしも母を殺したら自分はどうなるのだろうか?」と考えていた。長いこと監獄暮らしを強いられるのは間違いない。それは人生を棒に振ることになる。母親をこの世から抹殺する代償としてはあまりにバカげている。が…

人を殺すメリットはそれ以上のものなのか?事情を知らない巷の殺人事件に思いを馳せ、どれ一つとってもワリに合わぬことに思えた。小野田元少尉は川崎の金属バット殺人事件を機に全国を講演し、「イヤな親と一緒にいることはない。すぐに家を出た方がよい」と説いていた。その事は彼が親と一緒にいたくなく、一人満州に渡ったことの経験談にもよる。「イヤな親と一緒にいること自体が甘え。さっさと行動すべし」と小野田さんはいうが、甘えた現代人男はそんな度胸も勇気もないのだろう。